Archive for the '萌えコンテンツ' Category

キャラクターイラスト絵師のような声

ダウンロード音楽販売のサイトをうろうろしていたら「電車で電車でGO!GO!GO!れぼりゅ~しょん」なるアルバムが売られているのを見つけた。
寡聞にも知らなかったのだが、2008年秋頃に「電車で電車でGO!GO!GO!」の萌えポップカバーとして発売されたアルバムらしい。UFO子(うほこ)の「スペースインベーダーエクストリーム2」が2009年なのであのころのタイトーはそういった路線だったのだろう。
「電車で電車でGO!GO!GO!れぼりゅ~しょん」聞いてみるとなんだか癖になって気に入ってしまった。いかにもな萌え声なので受け付けない人も多そうだけれども、エクストリーム2の InvaderGIRL! と同じくよくできた楽曲にリズミカルサンプルなキュートボイスが心地よい感じ。

んでまあ、個人的にこの電Goれぼりゅ~しょん、InvaderGIRL! とセットで見てしまうんだけれども、どっちもひじょーにクセのあるキュートボイスが耳について離れないあたりに色々と感心しつつ聞いてしまう。
なんというか、いかにもな「可愛い萌えボイス」といった風情なんだけれども、それがサンプルとして連打されていると特徴点が際立って見えてくるとかそんな感じ。
とにかく『ごぉー↑』だの『えくすとりぃむぅ~↑』だの語尾がどこまでも上がりまくる。ほとんど通常の発音ではないくらい。でもその特殊な語尾の上がりがとてつもないかわいい系といった雰囲気を作りだしている。
こういった輪郭や特徴点を抽出してなぞることができれば、萌え系ボイスのテンプレートができあがるのではないかと考えてしまう。そのへんは過去記事「音のデフォルメについての考察」も参照していただきたい。

「電車で電車でGO!GO!GO!れぼりゅ~しょん」の方は『歌・枕木三姉妹』とあって「誰やねん」と思ったが、中の人は民安ともえ、成瀬未亜、壱智村小真といったメンバー。あー、なるほどねと思った。
ちょびっと言葉を選ぶけれども、いわゆるゲーム系の声優さんというのは最近独特な芸風をもった役者さんになってきていると思う。ある意味最先端。
良く『アニメ声』なんて表現があるけれども、アニメーションってのは割と幅広い演技が必要で本当に『役者』として広い範囲をカバーする必要があると思っている。くぎみーだのゆかりんだの萌えキャラ声が有名な人でも「そういう役もできる」という手広い範囲の一角。なんでかというとアニメはそういった続いた時間を演技するので通常の舞台と様式が似通ってくるからじゃないかなあ。
一方ゲーム系はアニメとは違った密度を持ち始めている。本当に濃い部分、おいしい部分、特徴的な部分をさらにこってりと煮詰めて『そこだけ』を提供することが可能である。なので、それに特化した演技というのが発展できる可能性がある。
なので『萌え声』というキャラクター性をもった声質というのがゲーム声優によって形作られつつあるという論を語ってみたい。

キャラクター性のある声というのはどう言うものかという定義からする必要があるかもしれない。
声を聞いただけで誰かわかるとか、声の演技で雰囲気を作り出すとか。通常ストーリーのあるアニメやドラマを超えでやると状況の中で声を出すけれども、声があるだけで存在感がある声優さんというのが居る。八奈見乗児とか、若本規夫とか。あまりにも存在がたちすぎていて、声のフォルムが形作られるとギャグっぽくなってくる。逆にギャグものをやるには、声がある程度のフォルムを持っていないといけない。これが声におけるデフォルメなんだと思う。
それと同じように『萌え』ものをやるにも、声をデフォルメしてある程度の非リアルさに持って行く必要があるのではないだろうか。単純に声が高くてキャピキャピしてればよいというのではなくて、存在感のある非現実的な演技を伴った声でなくてはならない。色々な演技もできてそれもできるというのは一流の仕事だが、そのデフォルメ声に特化した演技が得意というのも世界としては在りかもしれない。それがゲーム系の声優さんなんじゃないかと思う。

で、そんな萌えだのなんだのといったデフォルメ演技に特化できる役者さんは何かというと、絵師と呼ばれるキャラクターイラストレーターみたいなものじゃないかと思うのだ。
昔は漫画やアニメが第一線でそこからすべてが生み出されてきていた。キャラクターとか絵柄とかも。
しかし、80年代以降『イラストレーター』と呼ばれるキャラクター絵をメインとした絵描きがもてはやされるようになる。キャラクター絵は皆が注視するところだし、背景や中割といった実力を必要とする作業をせずにそこに注力するだけでよいので多くの人が志望したくさんのクリエイターが生まれた。
とすると、今度はそのイラストレーターが生み出すキャラクターや絵柄が最先端になってきたのである。
漫画はさほどではないけれども、アニメはその人気絵師の絵柄を取り入れるまでに2クッションくらいの時間を要する感じになってきている。というのも、大勢で作るものだから、みんなで描けるレベルの絵に抽出できないといけないんだよね。そのうち流行の絵柄を取り入れて近づいていくんだけれども、ちょっと時間がかかる。
それに比べるとゲームはダイレクトに流行の絵師を起用できるジャンル。または、ゲームで絵師がブレイクしてその絵柄が流行になったりとかいった側面も持っている。これはキャラ絵だけ抜き出して特化しても作れるジャンルをゲームは持っているからなんだろうと思う。
まあ、そんな感じにゲームと絵師はなんだか独自に先端を走って、その先端がたくさんあって、いくつも消えていくけれどもいくつかの先端は確実に時代の流れを作っているとか、まあそんな風にみている。
で、同じくゲーム声優というジャンルも、キャラクターイラスト絵師と同じく特定のフォルムだけに特化してそれを先鋭化していく分野なんじゃないかなと思った。

キャラクターイラストと同じようにキャラクターボイスも流行の声質や演技というものを次々に生み出して、そしてそれは非リアルなものだけれどもなんだか可愛いくて良いものとして確立していくのだろう。
そしてそういった先に次世代のキャラクターが存在しているのだ。



2011年はこんな萌え、休止のお知らせ

当ブログで 2004年から毎年お正月頃に書き殴っていた放談企画「今年はこんな萌え?」だが、昨年までとして今年以降は休載とさせてもらうことにした。
まず第一に 2010年は『萌え系』に代表される二次元美少女コンテンツの世界に構造的な変革がなにも訪れなかったというのがある。個々で見ていけば「天使ちゃんマジ天使」とか「イカちゃん可愛い」とか話題は尽きないのだが、それを構築する構造については特筆すべき変化がなく旧年の延長でしかなかったと見ている。
また、アマチュアクリエーションの世界においては、これまで目標としていたプロプライエタリの世界にひたすら肉薄し追い抜こうとすらしている。そうなると今後は目標を失いどこを目指すべきか方向性を失う。それぞれに発展すべきベクトルを見つけ伸ばしていくターンに入りつつある。そのような拡散パターンにおいては様々なチャレンジと小さな失敗を沢山繰り広げる事になるだろう。一見停滞に見えるかもしれないが、そのばらばらなチャレンジと失敗こそが今後を見つけるための施策となるはずだ。

そして、これが一番大きな理由であるのだが、『萌え』という言葉は既に古くさくなってしまった。
『萌え系』というのは二次元美少女コンテンツすべてを指す言葉ではないと考えている。二次元美少女コンテンツは2000年からの10年いわゆる00年代において大きく躍進し、その先端は『萌え系』という単語をいただいた。
それも十分に成熟していき世間的には十分に浸透したし、良質なタイトルは市民権を得るまでになってきている。そういったコンテンツなんでもかんでもを『萌え』と賞するのはどうかというレベルになってきたと考えている。むしろ今『萌え』という単語を使っているのは本質をよく知らない者か、あえて侮蔑したい者かなのではないだろうか。

00年代はあきらかに『萌え系』の時代であったとは思う。『萌え系』とは何であったかというと「キャラクターのみが存在し得て、それ単体で賞賛されている状況」であったと認識している。
かわいい絵が単体であり、それになんにもバックボーンが付随していなくても『キャラクター』が成立し、絵からコンテンツが派生していくことができた時代があったのだ。さながらキャラクターバブルといった様相。キャラクターがあれば、商品はなんでも良いのだ。これほど楽なこともあるまい。
そんなバブルな状況も 00年後半で徐々に変化していく。
単にデキの良いキャラクターがいても踊ることが無くなっていく。裏にあるしっかりとした本質が問われ、それにキャラクターが付随していくように変化している。
例えば話題となった羽後町のあきたこまちパッケージ。あれはおいしいお米が本体でありキャラクターが受けていたというわけではない。あの西又先生のキャラクターだけが一人歩きし、ゲーム化したりCDデビューすることを皆が望んでいるかというとそうではない。だが、パステルいんくなどは参考書から引っぺがし英単語学習というアイデンティティを引っぺがしても存在しえた。そこに差がある。

商品展開とキャラクターバックボーンの狭間は「すのこタン」あたりなのではなかろうか。アルミ放熱すのこという商品を体現するキャラクターで、様々なグッズ展開をしてはいるがあのアルミ放熱すのこというアイデンティティを引っぺがしたら存在しえなくなってしまう。そして放熱すのこという商品が良いから今に続いている。
同じ事は初音ミクにも言える。キャラがうけて様々な展開をしているが、ミクから歌を引っぺがすことはできない。むしろ歌とセットでないと存在できないものだという世界をみんなで作っている。そしてなによりその歌声が本質であり続ける。
そういった 2007年あたりからの空気を経て、現在はバックボーンの重視がいっそう強まっている。
ゲームは売れ続けているのに関連グッズがさっぱり売れないなんてのは 2000年前後では考えられない状況なのではないだろうか。

10年代はキャラクターが商品になるのではなく、商品にキャラクターが付いていく時代である。
00年代はキャラクターが『絶対神』的崇拝対象でその派生物はなんでもありがたかった。これからは素の状態でも購入したくなる良質な商品にキャラクターが付いていきそれぞれが価値をもつ、いわば『八百万の萌え』の時代になっていくのだ。

すべてのキャラクターがありがたい。そんな時代に予測など必要だろうか。



2010年はこんな萌え?

2010年明けましておめでとうございます。
毎年年明けには「今年はこんな萌えが来る」と根拠なく放談を続けている当ブログ。いいかげん「萌え」という言葉も古くなり00年代とともに捨てていきたいところですが何となく恒例になっているので今年もやる気なく書いていきますよ-。

2009年の放談を振り返ると「コミュニケーション構築に向けた、名刺としての萌え要素」とか書いていた。俺の嫁を宣言することでわかり合える猛者たちといった事なんだけれども、ラブプラスを取り巻いていた熱狂をみるとあながち外れてはいなかったのかなーとも思う。
ま、そんな事はさておき、今年を占ってみよう。

ここしばらくはコミュニケーションとキャラクターの関係について考える事が多かった。コミュニケートの手段としてキャラクターを用いたり、キャラクターを軸に場を作りそこでコミュニケートをする様になると見ていた。
そういった世界はおおよそ構築されたような気もするのだけれども、今年はそれらが拾い切れていない要素にスポットが当たるのではないかと見ている。
ズバリ言うと「個人の萌えという感情を定量化して比較、競争していく」という世界。俺の愛花に対する入れ込み具合を見よ、ワシが凛子のために書いたラブレターは108式まであるぞ、私は寧々さんとすでに300時間語らっています。とかそんな世界。
なんとなく今までそのように入れ込み具合を競うということはまれで、主にあったのは「いかに自分が壊れているか」といった表現であった。痛車とかはそういったオタクの(ちょっぴり自虐的な)表現から生まれたものじゃないかと思う。

痛車やディスプレイ前でのバースディケーキの例を出すまでもなくこれまでにもいかに壊れた表現ができるかといったことや、それほど自分はこのキャラが好きだという表現を我々はしてきた。
どうやってその表現をしていたかというと、誰が見ても敵わないと思ってしまう圧倒的な壊れっぷりを提示して叩き伏せるといったやりかたであった。これは表現のインフレを招きやすいし、高度になっていくと「どっちがすごいのか」といった判断がつかなくなっていく。
なので、これから出てくる萌え要素にはどれだけ萌えたかを数値化できることが求められていくのだと思う。
数値化、大事です。先ほどちらっと出てきた「プレイ時間」などが良い例。ほかにもキャラソンCDを100枚買うとかあったよね。そういった数値にすると、ヤムチャでは敵わないといったことが明確にわかるわけ。なので、最初からそういった数値化とセットになった萌えが提供されていくだろうと見ている次第。
ゲームだったらプレイ時間だけじゃなく、ゲーム内での実績システムみたいなのとか、お前あのキャラと何回コミュニケートしたとか。シスタープリンセスの前からあった誌上ゲームでのお気に入りキャラクターのお兄ちゃん数によるランキングとか、ああいうのをネットと絡めると今もっと面白くできるはず。

結局、そういった競争や比較をした事があまりないというのはどういう事かというと、キャラクターを愛でるといった行為はこれまで個人の範囲のみで行われてきたことである。そういった隙間をめざとく見つけた人は、他の人がギャルゲーをしている姿は意外におもしろいということがわかっていたりする。
ぶっちゃけていうと「みんながどの様にラブプラスをプレイしているのか見てみたい」といった事になる。そして、そういった事はオフ会などを通じてちょくちょく実現化されているようだ。
今のとこ互いの萌え度をぶつけ合うといった場はオフ会の様なリアル空間でしかやりにくいものとなっているのではないかと思う。しかし、その表現方法が確立すればネットワークを介して見せっこすることが可能になるはずなのである。
つまりはキャラクターに対する愛や入れ込みといった「プレイスタイル」を作品として提示し、それを元にPixivのように語り合うSNS空間、そしてそこで交わされるコミュニケートがより求められるのではないかという世界を見ている。
そして、すごい奴を見て自分の位置を確認するという作業のために必要なのは萌え度を表すスカウター、つまりは定量化でないかといった事につながるのである。
こう改めて書いてみると ai sp@ce が微妙に惜しいなあ。

ここ数年の繰り返しというか総括になってしまうんだけれども、ゲームやアニメといった商品によってトップダウンで与えられるキャラクターによる「萌え」というのが発端だったのだけれども、今はキャラクター単体があってもなんの価値も持たない様になってしまった。
萌えやキャラクターといったコンテンツが成功するには、ユーザー側で発展させ膨らませるという作業が必須であることが目に見えている。そういった状況なので、ユーザーがなにに飛びつくのかというのは制御が難しくなり、コンテンツフォルダーとしてはやりにくいところだと思う。場合によっては素人が描いた全くの落書きみたいなものがもてはやされるかもしれないのだから。
だからこそ、ユーザー側での祭りにフォーカスが当たるわけである。
ユーザーも与えられるだけ、消費するだけでは面白くないと感じている。だから、キャラクターに対する想いを動画作成に注ぎ込んだニコマスといったものなどが作り出されていく。
そういった、ファン活動という二次創作活動が加速するとどうなるかというと、次は二次創作者にスポットがあたりブランディングされていく。エンドユーザーそのものが注目されつつも、キャラクターという共通項を通じて好きな人たちがつながっている。
そういったコミュニティ構築がやりやすい「萌え」というのは、自己表現がやりやすいキャラクターもしくはコンテンツ、システムといったことであると纏められる。
ニコニコ動画「御三家」などと括られたアイマス・東方・ボカロはそれに必要な要素をバランスよく含んでいると見れるのではないだろうか。

消費だけでなく、表現ができないと今の「萌え」は楽しめなくなってきている。



2009年はこんな萌え?

毎年根拠も無く、当てる気も無いままの放談「今年はきっとこんな萌えが来るね!」
ちなみに過去の書き散らかしインデックス。
2008年「継承によるキャラクタのカスタマイズ」
2007年「実体化不可能な要素」
2006年「ミステリー」「オリジナル」「オンライン」
2005年「本質的可愛さへの帰還」
2004年「2003年は萌え系コンテンツ成熟の年だったと思っている。ある意味今が頂点でバブル最盛期なのではないだろうか。」
今年も適当にいきましょ。

今年の流れはきっと「コミュニケーション構築に向けた、名刺としての萌え要素」かな、と。

大筋は昨年の記述と繋がっていたりするのだけれども、今回の着目点は「俺の嫁」という言葉が持つ意味がこの1年で変質してきたあたり。
自分のお気に入りのキャラクタに対し「俺の嫁」と宣言し、そのキャラクタへの思い入れや嗜好をアピールする姿はネット界隈で大分以前からあった風習だと記憶している。それが2007年に入ってニコニコ動画上で頻繁に見かけるようになって広く定着した。個人ブログ等の非匿名環境で嫁宣言を行うと「あなただけのものではありません」とか「その程度の思い入れで嫁呼ばわりはできん」とかつっこみをもらうものなのだけれども、匿名性の高いコメントにおいてはそういったトゲが和らぎ「馬鹿なことやっているなあ」という笑いの要素へと転じる雰囲気となっていた。
そんなニコニコ動画のコメント上であっても2007年においての「俺の嫁」宣言は、特定キャラクタを独占したい、それくらい俺は好きなんだといった攻撃的な要素を含んでおり「俺の嫁」の奪い合い合戦が度々生じてしまっていた。
ところがこの言葉が定着してしまうと幾分まろやかな表現となっていき、2008年においては「自分の属性を皆にアピール」する意味での嫁宣言となっていく。もしくは「このキャラクタ可愛いよな」と同程度の意味合い。
そうなってくると「俺の嫁」という発言の目的も変わっていく。
これまではただ単純に自分の好みを宣言し他は認めないといった攻撃的なアピールだったのだけれども、最近では「わたくしは○○を嫁としたいものですが、同士はいらっしゃいますでしょうか」というコミュニティ形成の道具として扱われている。
自身のアピールもコミュニティ形成の手段ではあるのだが、より積極的にクラスタを検索しそこに所属するためのタギングとして「萌え属性」が用いられつつある。
ボカロパンツ派閥なんてのがあるけれども、これも自分が信じるものを宣言しなんとなく派閥に属することでコミュニケーションの機会を得ている例ではないだろうか。白だの縞だので集まることで、他の派閥に負けるなという会話ができたり時には結束してコンテンツを生み出したり。
かようなキャラクタを軸としたコミュニケーション構築という娯楽をいかに提供できるかがこれからのサービスとなって行くことだろう。もちろん言うまでもなく、既に成功している事例が PIXIV なのだが。

以上のようなことを含みつつ ai sp@ce はどんなもんだろうと、静観を続けていた。DAKINI氏がかさぶたで『「おれを見ろ」ではなく、「おれの愛を見ろ」』と書いていたのが正鵠を射ているなあと思ってのこと。
基本的に私はアバターサービスが大嫌いである。自分をアピールするのが苦手であり、自分の作り出した作品の方を見てもらいたいと思っているからだと思う。WiiのMiiも嫌いで仕方ないのに、XBox360の新インターフェースはアバター必須となってしまった。しかもそのアバターがバタ臭くて耐えられない、爆発してしまえ。
だいたいで、ネット上で表現すること自体がアバター化みたいなものなのに、二重三重に別人格を演じてどうするのだ。めんどくせえ。
という個人的心境の前提で ai sp@ce を見るとどうか。
確かに「キャラドル」という俺嫁を添えて、それを可愛く着飾ったりカスタマイズしたりして皆に見せることができるほど可愛がるという要素は悪くない。しかし、街を歩いていたりコミュしている人たちをみると何か違うことに気づくのだ。
「キャラドルいらなくね?」
結局「キャラドル」の方でなく、アバターというプレイヤーキャラクタそのものの方を着飾ったり、会話をひねったりすることでコミュニケーションが成立してしまうのでそれで良いのだ。「アバター=自分」でなく「アバター=作成したキャラクター」になってしまっていて「キャラドル」をかまう必要がなくなる。または、コミュニケーションとしてキャラドルを褒めるのではなく、アバターを褒める事で事足りてしまう。
自分を仮想空間にコピーしなくても、中の人としているのだし、アバターそのものを可愛く仕上げて名刺として使用することができる。
なんか、この微妙な剥離感が気になってもういいやと思ってしまったあたり。

2008年で最も凄げえと驚愕したキャラクタコンテンツは Baby Princess のブログ “WHOLE SWEET LIFE” である。
Baby Princess は Sister Princess 後継の読者参加型誌上キャラクターゲーム。12人(9人)の妹ではなく、今度は 0歳から18歳までの19人姉妹の物語。これだけのレンジがあればどれかは当たるだろうという力業な弾幕コンテンツ。正直なところ、キャラクタを全員覚えるのは12人が限界だと思った。
んで、その企画自体はともかく、そのブログが本当に凄い。
これまでの一年間姉妹が交代で毎日更新しているのだけれども、このコンテンツの本体は「読者が書き込むコメント」にある。どの記事にも数十個のコメントがついているのだけれども、そのひとつひとつがキャラクタのファンが「交換日記」的に書き込んでいるため、本当に壊れきっている(褒め言葉)。
シスプリの時もそうだったけれども、こういった二次元に対するファンの愛情アピール文は本当に面白い。
そして、それを数多く読んでいくと、それらファンの壊れたコメント群が一つの世界を構築していることが見えてくるのである。ブログの記事自体は与えられたコンテンツだけれども、そのコメントでファンたちは自分の考えた世界をそこに構築していく。そして、ここが意欲的な実験なのだが、時にはコメントを拾ってブログ記事に反映されることもある。
最初は薄っぺらな絵と設定、おおまかな性格しかなかった19人姉妹だったが、この1年間のブログを通じて驚くぐらいキャラクタが肉付けされていった。(というほど深く追いかけてはいないのだけれども)
ユーザーがシェアドワールドを構築していくのだけれども、それをスタートさせるきっかけは19人いる姉妹のうち誰のファンになるかということの選定であり、その結果の提示となる。
そして「俺の嫁」というワードで他の強者共とコミュニケーションをしていくのだ。

俺より強い奴に会いに行く。



「萌SD」にたりない物

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萌えキャラを付けて売ろうという試みの microSD カード「萌SD(もえすでぃ)」
なんとなく予約して発売日に入手していたりする。この手のは結構枚数あっても使ったりするのでなんとなく揃えてみた。1GBが2枚あるのは気にするな。や、安かったからってだけなんだからね!他の2人が可愛くないとかそんなことは言ってないんだからね!
実際のところ、割と所有ガジェットでSDHC未対応のものも数あったりするので 1GB、2GB という通常SDは使い道があるのだ。それに、SDHCじゃない通常SDだとFAT16でMMC互換SPIアクセスができるから、マイコンで扱い易く電子工作派にとっても使い出があるのですよ。言い訳じゃないよ?

でまあ、買う前からわかりきっていることだけれども『萌え』を名乗るにはあまりにも残念すぎる商品である。
何が残念なのかは考察に値すると思うので一筆記しておく次第。
『はてな村』風に書くと「そろそろ『萌SD』について語っておくか」、である。
取り敢えず語り口として「かわいくない」「萌えない」「絵が好みでない」という嗜好によるものは置いておく。いやしかし、2GBの次女はメモリの中に入っている壁紙をみて初めて「パンチラ」している絵だというのがわかるんだけれどもちっともうれしk(ry

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これが内容物。昨今の激安 microSD に比べるとそんなに安くもないのだけれども、そのかわりSDアダプターがついてくる。割と実用的なセットだったりする。
普通のSDと違うのはアスタリスク型の模様がついていてちょっぴり華やかさをアピールしている程度。microSD の方は何かしようもないのでこれで良いけど、アダプタの方は絵を刷り込むなり色つきの樹脂で成形するなりできたんではないか。このアダプタが、パッケージのベースカラーと同じ色になっているだけでかなり存在意義がでたと思うんだけれどもな。
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もっとも残念なのが取扱説明書。通常のSDカードと同じ文面とレイアウトの紙一枚で型番以外『萌SD』として書かれている事が無い。
なぜここにイラストを添えないのか。せっかくキャラクターが居るんだからそれに可愛く解説させるとか、そうでなくても脇に挿絵として置いておくとかできるだろうに。

こうして内容物を眺め実際に製品を使ってみると、この製品が『萌え』と称している要素は「パッケージ」と「メモリー内におまけで入っている壁紙」の2点だけなのですな。SDカードとしての実用度や、説明書やサポートといった点にはまったく触れてこない。
つまり店頭で「何かSDカードを買おう」と目的薄く売り場をブラウズしたときに、ちょっと毛色の違うこの製品を目にとまらせ、「せっかくだからこれにするか」という比較購入時のアピールでしかないわけなのだ。買った後のSDメモリにキャラクターは投影されていない。
そうして考えると公式サイトでの設定もかなりよろしくない。この3人娘はおじさんの家でSDメモリを売っている売り子ということになっている。この子らはあくまで売り子で「買ってくださいね」と微笑むだけで、買ってしまった後の商品はキャラクターから離れた物になってしまう。可哀想なのはマッチ売りの少女なのであって、その少女から買ったマッチそのものには深い思い入れがあるわけではないのだ。
つまりだ、キャラクターを付けるのならなんらかの形でSDカードを擬人化して、SDカードの先にキャラクターが透けて見えるようにしなければならないのだ。さすれば、SDカードに愛着も湧くし、複数枚所有しようかという流れにも持ち込む事ができる。
現状では「壁紙が欲しいから」程度にしかこの商品を選択する理由が無く、その壁紙も1枚あれば十分なので同じ商品を2枚3枚と買わせる原動力にはなりえない。むしろ壁紙は広告がわりにWEBで配布した方がよかったのではないかな。

米だの苺だのが話題だけれども、あれらは名前とキャラクターが結びついているしある程度の擬人化となっているので、食しながらうっすらとキャラクターを透かして見る事ができている。
そのへんを踏まえることのできない、形だけの追いかけ商品が今後どれだけ登場するだろうか。ある意味楽しみではある。

キャラクターは絵があるだけで価値をもつものではなく、その振る舞いや事象への紐付けによって魂を得るものである。



こっちもこっちで「また御社か!」

FL-chanで有名だったり、いやそーでもなかったりする FL-Studio の Image-Line 社。(ベルギー)
いつもお世話になっております。

なんか jmcさん(社長)が「Fl-chanまとめスレッド」を作ってますよ?
http://forum.image-line.com/viewtopic.php?t=15482
(フォーラムメンバーログインしないとまともに見れませんが)

かなり Perfect に近い状態のまとめ(ニコニコ動画の紹介まである)な上に、「僕たちが知らないFL-chanを見つけたら教えてね!」とやたら気さくだw
しかも、書き込み禁止になっているので本気の保存版リストだったりする。
Great!



踊る、シュレディンガーのぱんつ

すっきり見落としていたのだけれども、拙作「シュレディンガーのぱんつ」に合わせて踊るMikuMikuDance PV 動画なるものが投稿されていた。

あまつさえ、もう一つ。

ありがとうございます、ありがとうございます。
変な歌ですみません。

過去の関連記事:「シュレディンガーのぱんつ」をカラオケで歌おう!



2008年はこんな萌え?

なんとなく2005年あたりから恒例として書きつづっている「今年はこんな萌えが来る!」。
当てる気もなく、予測でもなく、振り返ることもなくただの放談なのですが今年も行ってみましょー。

ちなみに、昨年はテンプレート化した属性から離れて、リアル化しにくい「形のない萌え」が来るよ!とか書いてあった。もちろん、このときには「初音ミク」なるヴァーチャルアイドルがブレイクするなんて思ってもいなかったのだが。

2008年に来るね!と観ているのは「萌えのポリモーフィズム」。
大昔、アニメのヒロインは一人しかいない物であった。ヒロインとそれを支持するユーザーが一対一であったのだ。これがゲーム(主にエロゲ)によって、ヒロインの複数化・パラレル化が始まり、「セーラームーン」によってマルチヒロインが定型化し現在に至る。その結果どうなったかというとオタク(ユーザー間)における好みの多様性肯定であった。
「おや、おたくは亜美ちゃんですか、私はレイちゃんなんですよ。はっはっは」と、それぞれの好みの違いやひいきなキャラの違いを認めつつ、「セーラームーン」いう大きな枠の中で楽しんでいる状態。派閥同士で争わず、もっと大きな共通項で結びついているというコミュニティ。
そういった他を認めつつ自分を主張するといったファン心理は現在まで続いていくのだが、そのなかでも「オレの嫁」合戦や信者拒否といった様に他の許容が徐々に細っているように思える。

そんな閉塞感を打破したのがこれまた「初音ミク」であった。
初音ミクはヴァーチャルな存在であり、色が付いていなかった。なおかつ商品である。このため初音ミクという存在は唯一のものではなかったのである。つまり、ユーザーである一人一人の手元にその人だけの初音ミクが存在している。
このことは、これまでの提供されていたコンテンツの様に絶対的存在を「オレの嫁」と奪い取る形ではなく、自分の手で自分が可愛いと思ったかたちでのキャラクターを作りだし、それを見せて語り合うといったコミュニケーション形態の変質をも意味する。
クラスとして継承可能なキャラクターが存在するだけで、ユーザーの形態に合わせてインスタンスが変わるポリモーフィズム。
最も極端な例で言うと「亞北ネル」や「弱音ハク」といった「初音ミク」をスーパークラスとして派生、継承し新たなクラスを作り上げたキャラクターが存在している。「弱音ハク」はさらにユーザー毎のインスタンスが存在しているため、従来の提供型キャラクターでは説明できないような世界を持っている。

ツンデレだのメイドだのテンプレートで作られたアルゴリズムだけの存在は唯一供給元としては都合が良いのだが、そういった固定されたメソッドにユーザーが合わせていく時代は終わりつつある。一人一人のユーザーに合わせたキャラクターが作り出せる様な、ポリモーフィズム・多様性が求められるのではないだろうか。
そしてそのようなポリモーフィズムをユーザー間で認め合いつつ、共有していくコミュニケーションが今年はさらに加速することであろう。



擬人化は続くよどこまでも

毎月の定例チャットにて。
ふたば方面の「OSたん」が補完庫出来ていたのでそれを肴にくっちゃべる。
元々「言語娘。」もこのチャットから生まれた物である、ということは好きな面々がそろっているのでそれなりに盛り上がるのは言うまでもないことで。

「OSたん」は Windows 中心(というかダメっ子Meたん中心)なので、やはりこっちは Linux ディストロ娘で、おやお嬢さん帽子が変わりましたね、とか。としばらく盛り上がっていたのだが、やっぱディストロ娘は考え易いうえにあまし面白くないのでもちょっとひねってみることに。
数あって個性がある題材が良いんだけど、なぜかWEBブラウザに決まる。

でまあ、バカ話をしばらく交わしていたのだけれども、せっかくなのでメモとして置いておくことに。
http://www.limo.fumi2kick.com/fbbs/lmwiki.rhtml?topic=%A5%D7%A5%EA%A5%C6%A5%A3%A1%F9%A5%D6%A5%E9%A5%A6%A5%B6%A1%BC

あらゆるものを擬人化して能動的に萌えるというのは実に日本的な行為であると思う。(褒)
「万の神」的な感じだよねー。

関連リンク
http://nijiura-os.hp.infoseek.co.jp/



MEGAMI と G’s

MEGAMIマガジンとG’sマガジンの発売日である。
さすがにこれらをもって出社するほどの度胸はないので出社時には買わずに、帰宅時にこっそりと買って帰る。
今日のMEGAMIマガジンはお楽しみだったのですよ。なぜなら「天使のしっぽ」の続編である「天使のしっぽChu!」の放映日が載っているのだから!!ってだいたいはネット上のリーク情報でつかんでいたんだけどね。一応オフィシャルな発表がこの紙上ということになっていたので。
それにしても「2(two)」のもじりとは言え「Chu!」ってのはどうよ。『まったくもってー』とか「厨」とかいろいろよその事が頭に浮かんでしまうではないか。(「渋谷で〜」は範疇外なので浮かばず) あまり好印象ではないかな。

ちとびっくりしたのがMEGAMIマガジンの表紙が「シスタープリンセス・リピュア」だったこと。なんでかというと、MEGAMIマガジンの一押しコンテンツが「天使のしっぽ」であり、これが「シスタープリンセス」の対抗コンテンツであったがためにMEGAMIマガジン上では不自然なくらい取り上げられる事がなかったのである。その逆でG’sマガジンのほうでも「天使のしっぽ」が取り上げられることはなかったんだけど、G’sは原則ゲームコンテンツ中心なので範囲外とも言え別に不自然ではなかった。
だけどプリピュアが始まるにあたってその戒厳令を解いたらしくMEGAMIマガジン上にシスプリの情報が踊るようになったというわけ。
今月のG’sマガジンの方を見るとゲーム版「天使のしっぽ」が掲載されていてそれはそれで感慨深いものがあってみたり。間にゲーム版「陸まお」が挟まっているものの、エンジェリックコンサートが続けて掲載されているあたりに苦笑してみたり。

で、G’sマガジン。
各所で「冥土服キター」と話題になっているプリピュアオリジナル下敷きだけど、私は何度みても「ミュウミュウ」に見えてしかたがないんですがどうにかしてください。ってことは黄色い服を着ている咲耶が猿担当ですか?
G’sマガジンといえば期待の新コンテンツ「双恋(ふたこい)」、残り 2組の双子ちゃんの発表きたる、どきどき。って、ツインテールロリと内気眼鏡ですかッ!!!そ、そうきましたかッ!!!あまりにも狙いすぎではないのですか!? だからオタクコンテンツの記号化とその浪費が行き着くところの危惧として、ってとりあえず落ち着け俺。すいませんちょっとつぼ入ってしまいました。(でも一番気になっているのは白銀姉妹だったり)
双恋のキャラデザはささきむつみ氏だけど、ゲーム部分カットは金閣寺ぷるる氏が行うらしい(シスプリにおける霧賀ユキさんみたいな感じ)。あ、ちょっといいかも、この人の絵結構気になっていたんだ。
やはりこのへんの取り回しはさすがとしかいいようがないな>G’sマガジン




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