2011年はこんな萌え、休止のお知らせ

当ブログで 2004年から毎年お正月頃に書き殴っていた放談企画「今年はこんな萌え?」だが、昨年までとして今年以降は休載とさせてもらうことにした。
まず第一に 2010年は『萌え系』に代表される二次元美少女コンテンツの世界に構造的な変革がなにも訪れなかったというのがある。個々で見ていけば「天使ちゃんマジ天使」とか「イカちゃん可愛い」とか話題は尽きないのだが、それを構築する構造については特筆すべき変化がなく旧年の延長でしかなかったと見ている。
また、アマチュアクリエーションの世界においては、これまで目標としていたプロプライエタリの世界にひたすら肉薄し追い抜こうとすらしている。そうなると今後は目標を失いどこを目指すべきか方向性を失う。それぞれに発展すべきベクトルを見つけ伸ばしていくターンに入りつつある。そのような拡散パターンにおいては様々なチャレンジと小さな失敗を沢山繰り広げる事になるだろう。一見停滞に見えるかもしれないが、そのばらばらなチャレンジと失敗こそが今後を見つけるための施策となるはずだ。

そして、これが一番大きな理由であるのだが、『萌え』という言葉は既に古くさくなってしまった。
『萌え系』というのは二次元美少女コンテンツすべてを指す言葉ではないと考えている。二次元美少女コンテンツは2000年からの10年いわゆる00年代において大きく躍進し、その先端は『萌え系』という単語をいただいた。
それも十分に成熟していき世間的には十分に浸透したし、良質なタイトルは市民権を得るまでになってきている。そういったコンテンツなんでもかんでもを『萌え』と賞するのはどうかというレベルになってきたと考えている。むしろ今『萌え』という単語を使っているのは本質をよく知らない者か、あえて侮蔑したい者かなのではないだろうか。

00年代はあきらかに『萌え系』の時代であったとは思う。『萌え系』とは何であったかというと「キャラクターのみが存在し得て、それ単体で賞賛されている状況」であったと認識している。
かわいい絵が単体であり、それになんにもバックボーンが付随していなくても『キャラクター』が成立し、絵からコンテンツが派生していくことができた時代があったのだ。さながらキャラクターバブルといった様相。キャラクターがあれば、商品はなんでも良いのだ。これほど楽なこともあるまい。
そんなバブルな状況も 00年後半で徐々に変化していく。
単にデキの良いキャラクターがいても踊ることが無くなっていく。裏にあるしっかりとした本質が問われ、それにキャラクターが付随していくように変化している。
例えば話題となった羽後町のあきたこまちパッケージ。あれはおいしいお米が本体でありキャラクターが受けていたというわけではない。あの西又先生のキャラクターだけが一人歩きし、ゲーム化したりCDデビューすることを皆が望んでいるかというとそうではない。だが、パステルいんくなどは参考書から引っぺがし英単語学習というアイデンティティを引っぺがしても存在しえた。そこに差がある。

商品展開とキャラクターバックボーンの狭間は「すのこタン」あたりなのではなかろうか。アルミ放熱すのこという商品を体現するキャラクターで、様々なグッズ展開をしてはいるがあのアルミ放熱すのこというアイデンティティを引っぺがしたら存在しえなくなってしまう。そして放熱すのこという商品が良いから今に続いている。
同じ事は初音ミクにも言える。キャラがうけて様々な展開をしているが、ミクから歌を引っぺがすことはできない。むしろ歌とセットでないと存在できないものだという世界をみんなで作っている。そしてなによりその歌声が本質であり続ける。
そういった 2007年あたりからの空気を経て、現在はバックボーンの重視がいっそう強まっている。
ゲームは売れ続けているのに関連グッズがさっぱり売れないなんてのは 2000年前後では考えられない状況なのではないだろうか。

10年代はキャラクターが商品になるのではなく、商品にキャラクターが付いていく時代である。
00年代はキャラクターが『絶対神』的崇拝対象でその派生物はなんでもありがたかった。これからは素の状態でも購入したくなる良質な商品にキャラクターが付いていきそれぞれが価値をもつ、いわば『八百万の萌え』の時代になっていくのだ。

すべてのキャラクターがありがたい。そんな時代に予測など必要だろうか。




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