AMDがハイパフォーマンス系CPUを作らなくなるかも知れないといった噂の記事があった。
これ自体は微細プロセス製造の行き詰まりとファブの取り合いといった複雑な状況が絡んでいるという見方だが、それ以前にキャンセルしても良いくらいにハイパフォーマンス系CPUは望まれていないんじゃないかと思う。
じゃあ、自前のファブで微細プロセス製造を引っ張っている Intel 独占の時代になるのかというとそういった雲行きでもなさそうで、Intelサイドの記事には微細プロセスをあくまで省電力化に使うような話しか沸いてきていない。
「ムーアの法則はまだ健在だよ!」とかみんな強がっていたけれども、これ以上のプロセスの微細化は毎度苦労している様だし、なにより大規模チップと大量電流でパワーコンピューティングをぶん回す様なプロセッサを求めなくなってきたのが市場を見ていても良くわかる。
私なんかは、コンピューターを使って「何か作る」ことが大好きなので PC でできるあらゆる事を体験したくて色々と手を出している。
3DCAD に 3DCG、動画編集にプラグインを山ほど刺したDTM。そういった負荷の高い作業を時たまやるのでパワフルなPCが欲しいと思うし、実際 6コア12スレッドの Core i7 を使って負荷100%で回すようなことを良くやっている。
しかし、そのことに対し「いいね!」という人は居なくなった。周囲の仲間やプログラマーを見ていても 4コア以上が必要だという人は見かけない。特にプログラマーは、よっぽど大規模演算が目的な人で無い限り「今あるPCで十分」と言うようになってしまった。
そのこと自体は良くわかる気がする。
PCはなんでもできる魔法の箱であった。
それ故、新しいことはPCからやってきたし、新しい流行っている事をやるのにPCが必要だった。
しかし、多くの人にとってはPCは大仰すぎる存在であったことも確かなのである。ゲームをするためにPCを導入する必要があったころ、電子メールをやるためにPCを導入する必要があったころ、WEBブラウズをするためにPCを導入する必要があったころ。そんな目的のために、複雑なOS設定やクラッシュするPCと辛抱強く向き合う必要性があった、そんな時代もあった。
今後はスマートフォンやタブレット端末と呼ばれるパーソナルデバイス(PD)が、それら多くの人の需要を満たしていくのだろうということを以前の記事で書いている。
あらかたそのように変容しているけれども、その時点でもそうだし今でも「PCが無くなることはない」と考えている。
単に、これまではPCを必要としてない人まで買っていたというだけで、PCが必要な領域というのはあるし必要としている人は居続ける。
ただし、必要としている人の数は今のPC出荷台数よりは遙かに少ない数字であることは想像に難くない。
なので、PC、特にハイパフォーマンスPCの類は今後どんどん出荷数が減っていくのと同時にとても高価なプロツールズとなっていくと見ている。
インターネットをするのに必要ですよ、年賀状も作成できますよ、みたいな半分嘘っぽい広告が乱舞してPCという高性能計算機が各家庭に入っていったのは素晴らしいことだと思う。ふとしたときに、当初の目的以外でPCを使ってそれがとても便利だということに気がつくことができた。
PCで文庫1冊分の小説を書くことも容易になったし、音楽や映像のクリエイターとして作品を作りデビューすることもできるようになった。
それら色々な「個人の手で創作する」ことを後押ししたのが、個人に普及したPCの存在とそのPCの高性能化が生み出した現象だと思う。
作って、公開し、評価を得る、といった一連の流れをPCとインターネットが生み出してきた。
プログラミングの世界ではもはや特殊なプロツールズは存在せず、アマチュアでも第一線と同じツールや環境が手に入れられる様になっていると言うことについては以前の記事で書いた。
PCが作ってきたのはそういった「誰でも製作側に立てる」という夢のような環境なのではないだろうか。
個人が MAKER になって小規模市場を構成する、といった未来絵図もPCの存在が前提になっていることが多い。
そのようにPCは「作る」側に非常に便利な道具となっている。
一方対抗勢力であるPDは「作る」方向にはあまり向いていない。消費に特化したデバイスである。
わかりやすいところでは、iPhone/iPad のアプリを開発するのに Mac が必要というあたりだろうか。Android ではAndroid機の上でプログラムの作成&コンパイルができるAIDEなる環境が存在はするが、あくまでできるといった範囲でひとつのアプリを完成させるには少々辛いところである。
現時点のPDはその上でプログラムを創造し配布するというアクションには向いていないと思う。
今の若者は恵まれていると思う。プロが手にする製作ツールであるところのPCと同じものが手元にあるのだから。
プロが使うアプリそのものは高価で入手しづらいかもしれないけれども同等のことができるフリーウェアに出会えるだろうし、何よりお金を出しさえすればプロと同じアプリを入手することができる。どんなにお金があっても入手することができないプロワークスと、お金さえあれば入手することができるの違いは意外と大きい。
本気で目指したいところがあるのならばPCがその近くまで連れて行ってくれる。あとは努力か才能か。
だがそういったPCのアシストを期待できるのは今のうちだけである。PDが定着し、多くの人にとって十分なサイズのコンピューティングにダウンサイジングした後はPCとPDで「作る人」と「使う人」に明確に分離する。PDの上での作成は今以上にしぼんでいくのでは無いかと考えている。
おそらくはPDに移行しきってPCが一般の人のものじゃ無くなったとしても、アマチュアは何かを創造しつづけるだろう。だが、そのときはプロと同じツールではなく、ユーザーサイドとして制限されたPDの上で表現できる範囲での新しい形のコンテンツとなっている。
携帯電話という限られたツールで、その中に特化した「携帯小説」なる表現方法を生んだ様に。
いずれはPDでの表現がこれまでのメディアや製造を凌駕し、既存のプロダクトが不要になっていくのかもしれない。そのときは、文化の変わり目なのでPD上の新しい分野に適合していくのだろう。
だがそれまでは。プロがPC上で製造開発をしてアマチュアがPDで消費をするといった構造が続く限り、生産をする側であるプロを新しく生み出し続けなくてはいけない。PCが入手困難になっていき若者がPCに触れることが困難になっていくのならば、プロの数も減っていき構造は崩れ去る。
プロやクリエイターを目指すのにいまほど適した時代はない。