Archive for 1月, 2001

つぶやき 01/18/2001

会社の同僚にコロコロコミックを見せてもらった。今年の劇場版ドラえもんで短編のほうは
ジャイアンとジャイ子(クリスチーネ剛田)の話なのか。兄として妹の為に奔走するジャイアン
の妹想いな姿が描かれるのだそうだ。
「き、兄妹物の奔流がこんなところにまで!!」と一瞬驚愕。
そいやジャイ子は漫画家目指して一筋だったなあ、同人世界というトレンドをも巻き込むのか!?おまけに性格は兄ほど酷くはないし、見目を除けば実は大変
キャッチーになれるキャラクターなのか!?でも娘は歳を重ねると化けるからなあ、ヒロインは
静ちゃん一人という寡占状態にあって頭数を増やすことは重要なのではないか!?
しかし、友人の妹か…うおーっうおーっ、はっ今何か聞こえたか!?

といった世迷い言は置いておいて。

先日不本意ながら(?)「シスタープリンセスのどこが面白いのか説明せよ」という苦行にも似た
状況に萌まれ(めぐまれ)。この際ついでだから俺的論理をまとめておこうかというくだり。

シスタープリンセスというコンテンツを他の萌え系コンテンツと比べ観察した際、特徴的だと
思われる事象が二つある。それは「恋愛対象でない」ことと、「同人誌は女性作家が多い」
ことである。まあ、後者については最近はメジャーになったので男性同人作家も入ってきて
いるだろうがそれでもというところで。
この恋愛対象でないというのは意外に大きいはずである。女の娘が存在するという他に何も
ないコンテンツであるわけだから、その娘にどのような形で入れ込むかというのは重要な
はずである。通常のギャルゲーと呼ばれるコンテンツにおいては大体が恋仲もしくはそれに
準ずる間柄になる事が目標である場合が多い。
しかし、シスタープリンセスでは妹であることからそういった恋仲になるという要素は一切
提示されておらず、ただ純粋にキャラクターを可愛がるという要素のみが存在し、いっそう
の輪郭をもって強調されている。
そう考えると、他の男性側カタルシスがステロタイプで存在する他ゲームに比べ、女性受けも
しているというのはなんとなくわかるような気がしてくる。
つまり、可愛い物を純粋に可愛いと愛でる感覚であり、人形をいとおしむ感覚に近い。
もちろん、単に存在しているわけでなくキャラクターを持っているわけで、それがさらに
「可愛さ」を増長している要素となる。その要素が「妹」という存在であるわけだ。

ここで妹キャラと言われるものについて振りかえってみる。
「妹」という設定が暗黙の内に持っているものは意外と多い。年下、肉親、近い存在、
保護すべきもの、等々…。そのなかでもシスタープリンセスの中で最も効果的に使われている
ものは「もっと身近な存在」であるという部分と「(今現在)誰よりも自分を見つめてくれて
いる存在」という部分であろう。
特にこの「妹はおにいちゃんのことがちっちゃいときから大好きでした」という個所が、
その筋の殿方のみぞおちノックダウンタオル投げ入れドクターストップでおい担架だ担架早く
持ってこいってな感じかと。
つまり抽出すると「常にそばに居てくれて」「自分に好意を持っていて」「すりよって甘えて
くる存在で」「また甘えさせたい存在で」あるわけだ。
相思相愛になった恋人同士がこれを補完してくれる可能性もあるわけだが、そばに居るという
絶対の距離感、および打算の無さ(肉体関係とか)において妹の方が抜きん出ているわけである。
別段抜きん出ている必要もないのだが、妹キャラというのはそういった特色を色濃く抽出した
ような存在という事になる。

もちろんここでの「妹キャラ」というのはそういった理想形を濃縮したファンタジーな存在で
あり、実際の存在とは異なる可能性がある事は考慮しておいて欲しい>実在妹保有者

よーするにだ、現代人はさびしんぼさんなんだよ。
「そばにいて甘えて欲しい」とか書くと「なにそれ気持悪い」とか思うかもしれないけど、
平たい目で見るとそれは誰でも持っている欲求でありその結果そばにいるのが兄弟であり
家族であり友人であり恋人であるわけだ。
ペットを飼うのも同じようなものであろう。
で、その欲求を満たしてくれる理想系の一つとして煮詰めて結晶化したものがシスタープリ
ンセスの12人の妹達なのである。
確かに労せずしてやすらぎを得たいという姿勢は安直かもしれないけれども、その存在は
井上トロ(どこでもいっしょ)と大してかわんないのである。
後は個人的嗜好の問題であって、趣味の領域ではないかと。

そういえばドラえもんにも妹がいたなあ…。
しかもドラミは「もうお兄ちゃんたらしょうがないんだから」といった(TLSの)みさき系妹だぞ!!
おお、そんなすばらしいコンテンツが30年前から存在していたとは!!
流石は藤子不二雄F 大先生!! ビバ!!

# あまし真に受けないでください



つぶやき 01/11/2001

今日は「2001年1月11日」。
仕事でファイル名に日付を併記しようとすると “hoge010111” とかになり
なんか読みづらい…。一瞬 2進数?とか思ったり。
そんだけ。



つぶやき 01/10/2001

取り敢えず世間的には PS2 バッシングをしていればカッコイイらしい(笑)。
PS2 はハードは売れたがソフトはさっぱり、とか。開発に金と時間がかかる
ので製作会社はいっぱいいっぱいだ、とか。いや、どれもその通りかと。
ソフトがないからねえとかいっていたのにふと気が付くと PS2 対応のゲーム
だけで 100タイトルをオーバーしている。いつのまに…。
その中、貴方は何本のタイトル名を覚えているだろうか? :-)

まあ、ちと養護するとメガドライブやスーパーファミコンの時代でもソフト
がこなれるのはハードが出てから一年以上経ってからだった。で、その間に
2〜3本ソフトを出すことによって会社のノウハウが高まりこなれたタイトル
が登場するという仕組み。
PS以降、ゲームコンテンツは肥大化する一方でそして PS2 である。
タイトルがこなれるまで 2年くらいかかってしまうのかもしれづ。

それより怖いのは「良いソフトが出ないから買わない」ではなく「最近の
ゲームには興味がない」となることである。案外多いんでないかな。

なにげに「今のゲームは駄目論」を唱えてみる。
注目する問題点はアーケードゲームの衰退。
かつてゲームセンターは憧れの場所であった。そこに行けば最新のコンピュー
ター技術を駆使した(子供の目にはそう写る)色とりどりのゲームが置いてある。
そのころの家庭用コンピューターやテレビゲーム機(カンスーマー機)は
貧弱で「あのゲームが家庭で楽しめる」と銘打たれた移植版はそれっぽい
ってだけのモドキ品であったものだ。それでも、ゲームセンターの興奮を
味合おうとおこづかいをはたいて買い、夢中で遊んだものだった。
そのころのゲームのステータスは「アーケード版に近い面白さを家庭用に
なんとかして持ってくる」というものだった様な気がする。
例えば、プレイステーションやセガサターンが発売されたとき何よりも
衝撃的だったのは「リッジレーサーが家で遊べる」「バーチャファイターが
家で遊べる」といった点。あのゲームセンターのゲームとほぼ同じものが
家で遊べる、だからこのハードは凄い。あのゲームが移植される為には
もっともっと凄いハードでないとならない。
そういった全ての指標がアーケードゲーム機にあった。
まさに、アーケードゲーム機は憧れであったのだ。

しかし一つの転機を向かえる。プレステチップを使ったアーケード基盤の
登場である。この時点でカンスーマー機はアーケード機に並んでしまう。
というかそのものになってしまった。
アーケードで出来るゲームは簡単に家庭用として登場する。以後「ゲーセン
ならでは」という光輝く凄さを持ったタイトルは激減することとなるのである。
また、ドリームキャスト以降「グラフィックが凄い、美しい」といった
価値観がプレイヤーから消失する。映像的に一定水準に行き着いてしまい
これ以上はどうなったら「スゴイ」のかプレイヤー(一般消費者)には
見当がつかないのである。
こうしてアーケードゲームは特殊筐体と対戦筐体以外は急速に色あせる
事となる。
色あせるアーケードとうらはらにカンシューマー機はどんどんと進歩する
が、その指標の一つであるアーケードをほぼ完全に失ってしまったゆえ
行く先を探して迷走している様に思える。
こうしてシューティングは絶滅に瀕し、アクションも衰退の一途を辿る。
レース物も短時間のタイムアタックというアーケード形からその遊び方を
変えていくであろう。

つまり何かというとフラグシップが必要なのだ。
どんどんと実験が行なわれて、その中でいけそうなものが見つかったら
その方向性で儲ける。かつてはゲームセンターが舞台であった、その
「実験」の部分が今現在貧弱なのではないだろうか。
アメリカでは PC ゲームがその実験を担っており、ネットワークゲームが
そうした中から出てきたのもうなづける。
オリジナリティあふれるアイディアをどんどんとつぎこんで、いろんな
実験をしていて欲しい。今の日本ではそういった場所がないのではないだ
ろうか。まあ、利益を考えると難しいものなのだが。

日本でも独自の文化で進化しているジャンルがあるといえばある。
PC 用18禁ジャンルである。
オリジナリティという点ではまだまだな点だらけだが制作者の意欲とハン
グリー精神は業界一ではないかと。

レベルはともかく何かしらチャレンジをし続けることは、今だからこと
大切なんだと思う。

# ここでは RPG や ADV といったカンスーマーオンリーなジャンルは
# 敢えて外して書いています :-)
# 今ゲーム業界を支えているのは残っているそれらジャンルですよね


By rerofumi in Diary,ゲーム   .::. (Add your comment)

つぶやき 01/08/2001

アメリカでは CES (カンスーマエレクトロニクスショー)が開催されているとかで
日本のニュースサイトも盛り上がっているところである。
なんとなく記事を読んでいて印象的なのが、Intel や Microsoft といった陣営が
「PCは無くなりませんヨ?これからもますますPCですヨ?」と強調している点で
あろうか?
そいや、昨年 TRON SHOW 2001 での記事で読んだのだが、坂村建氏のスピーチと
して「TRON は今組み込み用 OS としてもっとも普及している、PC から非PCへの
シフトといううねりの中でTRONが担うものは大きい(意訳)」みたいな事を語った
という。制御機器系の事は詳しくはないのだが、以前から大きなシェアを持って
おり特に誇大な表現ではないだろう。

「PC は無くなってしまうの?」
答えはもちろんノー。…だと私は思っている。

確かに携帯電話やネットワーク専用端末が普及し、メールや情報流通が生活に
おける基礎的インフラとなりつつある昨今では、そういった目的のためにわざわざ
PCを使う必要は無くなりつつある。
また、どうしても PC は一般普及品にはなりきれない。全国民とまでは言わなく
ても大勢の人が扱うには操作が優しかったり特定の機能だけに絞った製品の方が
理想なのである。だからみんな(一般大衆)が使うものは、そういった専用機、
平たく言ってPC以外の家電製品になるべきだと思う。
だが、その様にネットワーク端末が普及したからといってPCが廃れるとは思わない
のである。PCの最も良いところであり魅力的であり、かつ最大の問題点は
「何でもできる魔法の箱」であるところではないか。
インターネット端末という姿は PC によってできる沢山の事のホンの一つでしか
ないわけで。他に何ができるのかという部分はまだまだ光輝いている。

PC は民生用コンピューター技術の「実験場」である。
何でもできそうなこの箱に対し、皆が夢を持ち、それらを短時間で実装する。
そして PC ユーザーが面白がってそれに群がる。そんな中で本当に必要なものは
大衆普及のために形を変えて降りてくる。そんな事の繰り返しではないか。
ワープロしかり、ゲームしかり、メールしかり。
だから PC はこれからも「面白い実験の箱」であってほしいのだ。

ネットワークもデジタルビデオも十分に熟してしまった。
さ〜て、次のおもちゃはなんじゃろな?



つぶやき 01/01/2001

そんなわけでお正月。
ここのサイトのトップ絵更新もすっかり年一回と落ちぶれしまったあたり。
流石にそれくらいは更新しないとならないだろうと言うことで年末に
ふにふにと新しい絵を描いてみる。…んぐ、崩れまくっているよこの絵(泣)。
まあ、取り敢えず掲載。

元旦くらいはだらだらと過ごす。だらだらだらだら。
買うだけ買って「積ん読」状態になっていた電撃キャラクターコレクション
「シスタープリンセス」をだらだらと読んでみる。(キャラクター毎の物語が
書かれた小説みたいなもんね)

……
………
ぐはあ(悶絶)
た、たまらん。相変わらず凄い内容だ。
いや本当に少女漫画系は読みなれている私でもこのコンテンツだけは読んで
いて恥ずかしくてたまらないという>シスプリ
天広直人さんのキャラクター絵は確かに魅力的だけれども、本当にこの
シスプリの世界をガッチリと構築しているのは公野櫻子さんの文章に他なら
ない。その他雑誌企画のライターも含め本当にこのコンテンツのクリエイター
諸氏の力量には感服する。どうしてこうここまで恥ずかしいものを創れる
のであろうか。

で、くだんのキャラクターコレクション。文字がかなり大きいのだが、
それでいて見開き2ページ内にハートマークが9つも散らばっている様は
どうよ?




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