Archive for the 'フリートーク' Category

Blog を見直す

前回の更新からえらい間の空いた当 Blog 「rerofumiのつぶやき」だけれども、更新停止というわけではないのでときたま思い出したように書くことがあるかも知れない。いや実際書いたりするんだよ、というエントリー。

思ったことを書いたり反応を見たりするには Twitter みたいな即時性の高い SNS の方がやっぱり楽チンで、そうやって適当に放題しているだけでなんとなく人が集まったり離れたりするのは割と理想的な世界だったと思う。
けれども、タイムラインという形式は蓄積には向いておらずナレッジベースを残すにはどうしたら良いかというのが課題であった。
個人的なナレッジベースとして Blog を書いていたのだけれども、例えばプログラムのノウハウとかそういった技術的なことをここに書くのは適切かといったそんな疑問が自分の中にあった。もう一方の「コメを噛め」の方は電子工作を中心とした工作 Blog として始めたので、工作系ネタはそっちに書くことにしている。これはまあうまいこといってて、今でもなんか作ったら更新できる感じではあるかなと思う。

なにかというとアウトプットのドメインわけをしたがる性分なんだと思う。
Twitter (@rerofumi) のほか、自分で Mastodon サーバー (https://www.mofgao.space) を立ててそこにもいる (rerofumi@www.mofgao.space) が、それぞれで投稿する内容は分けている。
ツールのレビューや動画作成のノウハウ、そして過去の作品の振り返りとしてニコニコチャンネルのブロマガを使ってみた。(http://ch.nicovideo.jp/fumi2kick)
プログラミングやサーバー構築関連のノウハウについては Qiita に集めるのが妥当だろうと思い投稿をしていた。(https://qiita.com/rerofumi)

技術系のアウトプットは Qiita でいいじゃんと思っていたのだけれども、2017年春にいくつかの著名な記事が削除されるという事件が起きた。
なんでもプログラミングに関係のない就職活動系とか純粋なポエム系とからしい。Qiita 自身が「プログラミング知識を共有しよう。」というサイトなのでまあわからなくはない。わからなくはないのだが、利用者として萎縮してしまうのだ。
自分が投稿していたのはサーバー構築記事が多く、要するにインストールしただけのものだ。設定ファイルや Dockerfile みたいなバッチは書くものの、プログラムは一行も書いていない記事が多かった。それらが「プログラミング知識を共有しよう。」に相応しいのかと考えるとどうしても投稿を萎縮してしまうのだ。
なので Qiita への投稿はストップして、自前のサイトで技術メモを残していこうかなと考え始めた。

Twitter も Twitter で流れていくことを是としたメディアなので、残しておきたいものについてはやはり Blog とか自分の手元への投稿に仕向けていった方が良いだろうなと思い始めた次第。
そんなこんなで、Blog を見直そうという気分になったのだけれども随分と間が空いてしまったので感覚が掴めずにおろおろと手探りしている状態だったりする。

とりあえず技術系メモについては別サイトというか別ページを用意してそこに書くことにしたのだけれども、それは次のお話として。



Windows8 向け、ゆうあいCPUメーター

前回の記事で作りかけだった CPUメーターのデスクトップアクセサリが完成したので配布するよの巻。


主に Windows8 で使う向けということで窓辺ゆう&あいをフィーチャーしてキャラクターも楽しめるデスクトップマスコットとして作成してみた。
マウス右クリックのコンテキストメニューでキャラクター選択。キャラ無しも選べるので会社のPCでも安心。
(会社のPCにキャラを表示するのは職場の空気と個人の責任において)

動作環境は .NET framework 4.0 以上。
Windows7 以上なら標準状態でうごくのではないかと。
元々 Winodws8 でデスクトップガジェットが削られてしまったので作成したという経緯があるものなので、Winodws8 以前の機種は普通にデスクトップガジェットを使っていれば良いのではないかと思いまする。

ダウンロードは以下。
Download: Install_fmCpuWatch.exe (1.87MB, インストーラ形式)



誰でもクリエイター時代の終焉

AMDがハイパフォーマンス系CPUを作らなくなるかも知れないといった噂の記事があった。
これ自体は微細プロセス製造の行き詰まりとファブの取り合いといった複雑な状況が絡んでいるという見方だが、それ以前にキャンセルしても良いくらいにハイパフォーマンス系CPUは望まれていないんじゃないかと思う。
じゃあ、自前のファブで微細プロセス製造を引っ張っている Intel 独占の時代になるのかというとそういった雲行きでもなさそうで、Intelサイドの記事には微細プロセスをあくまで省電力化に使うような話しか沸いてきていない。
「ムーアの法則はまだ健在だよ!」とかみんな強がっていたけれども、これ以上のプロセスの微細化は毎度苦労している様だし、なにより大規模チップと大量電流でパワーコンピューティングをぶん回す様なプロセッサを求めなくなってきたのが市場を見ていても良くわかる。

私なんかは、コンピューターを使って「何か作る」ことが大好きなので PC でできるあらゆる事を体験したくて色々と手を出している。
3DCAD に 3DCG、動画編集にプラグインを山ほど刺したDTM。そういった負荷の高い作業を時たまやるのでパワフルなPCが欲しいと思うし、実際 6コア12スレッドの Core i7 を使って負荷100%で回すようなことを良くやっている。
しかし、そのことに対し「いいね!」という人は居なくなった。周囲の仲間やプログラマーを見ていても 4コア以上が必要だという人は見かけない。特にプログラマーは、よっぽど大規模演算が目的な人で無い限り「今あるPCで十分」と言うようになってしまった。
そのこと自体は良くわかる気がする。

PCはなんでもできる魔法の箱であった。
それ故、新しいことはPCからやってきたし、新しい流行っている事をやるのにPCが必要だった。
しかし、多くの人にとってはPCは大仰すぎる存在であったことも確かなのである。ゲームをするためにPCを導入する必要があったころ、電子メールをやるためにPCを導入する必要があったころ、WEBブラウズをするためにPCを導入する必要があったころ。そんな目的のために、複雑なOS設定やクラッシュするPCと辛抱強く向き合う必要性があった、そんな時代もあった。
今後はスマートフォンやタブレット端末と呼ばれるパーソナルデバイス(PD)が、それら多くの人の需要を満たしていくのだろうということを以前の記事で書いている。
あらかたそのように変容しているけれども、その時点でもそうだし今でも「PCが無くなることはない」と考えている。
単に、これまではPCを必要としてない人まで買っていたというだけで、PCが必要な領域というのはあるし必要としている人は居続ける。

ただし、必要としている人の数は今のPC出荷台数よりは遙かに少ない数字であることは想像に難くない。
なので、PC、特にハイパフォーマンスPCの類は今後どんどん出荷数が減っていくのと同時にとても高価なプロツールズとなっていくと見ている。

インターネットをするのに必要ですよ、年賀状も作成できますよ、みたいな半分嘘っぽい広告が乱舞してPCという高性能計算機が各家庭に入っていったのは素晴らしいことだと思う。ふとしたときに、当初の目的以外でPCを使ってそれがとても便利だということに気がつくことができた。
PCで文庫1冊分の小説を書くことも容易になったし、音楽や映像のクリエイターとして作品を作りデビューすることもできるようになった。
それら色々な「個人の手で創作する」ことを後押ししたのが、個人に普及したPCの存在とそのPCの高性能化が生み出した現象だと思う。
作って、公開し、評価を得る、といった一連の流れをPCとインターネットが生み出してきた。

プログラミングの世界ではもはや特殊なプロツールズは存在せず、アマチュアでも第一線と同じツールや環境が手に入れられる様になっていると言うことについては以前の記事で書いた。
PCが作ってきたのはそういった「誰でも製作側に立てる」という夢のような環境なのではないだろうか。
個人が MAKER になって小規模市場を構成する、といった未来絵図もPCの存在が前提になっていることが多い。

そのようにPCは「作る」側に非常に便利な道具となっている。
一方対抗勢力であるPDは「作る」方向にはあまり向いていない。消費に特化したデバイスである。
わかりやすいところでは、iPhone/iPad のアプリを開発するのに Mac が必要というあたりだろうか。Android ではAndroid機の上でプログラムの作成&コンパイルができるAIDEなる環境が存在はするが、あくまでできるといった範囲でひとつのアプリを完成させるには少々辛いところである。
現時点のPDはその上でプログラムを創造し配布するというアクションには向いていないと思う。

今の若者は恵まれていると思う。プロが手にする製作ツールであるところのPCと同じものが手元にあるのだから。
プロが使うアプリそのものは高価で入手しづらいかもしれないけれども同等のことができるフリーウェアに出会えるだろうし、何よりお金を出しさえすればプロと同じアプリを入手することができる。どんなにお金があっても入手することができないプロワークスと、お金さえあれば入手することができるの違いは意外と大きい。
本気で目指したいところがあるのならばPCがその近くまで連れて行ってくれる。あとは努力か才能か。

だがそういったPCのアシストを期待できるのは今のうちだけである。PDが定着し、多くの人にとって十分なサイズのコンピューティングにダウンサイジングした後はPCとPDで「作る人」と「使う人」に明確に分離する。PDの上での作成は今以上にしぼんでいくのでは無いかと考えている。
おそらくはPDに移行しきってPCが一般の人のものじゃ無くなったとしても、アマチュアは何かを創造しつづけるだろう。だが、そのときはプロと同じツールではなく、ユーザーサイドとして制限されたPDの上で表現できる範囲での新しい形のコンテンツとなっている。
携帯電話という限られたツールで、その中に特化した「携帯小説」なる表現方法を生んだ様に。

いずれはPDでの表現がこれまでのメディアや製造を凌駕し、既存のプロダクトが不要になっていくのかもしれない。そのときは、文化の変わり目なのでPD上の新しい分野に適合していくのだろう。
だがそれまでは。プロがPC上で製造開発をしてアマチュアがPDで消費をするといった構造が続く限り、生産をする側であるプロを新しく生み出し続けなくてはいけない。PCが入手困難になっていき若者がPCに触れることが困難になっていくのならば、プロの数も減っていき構造は崩れ去る。

プロやクリエイターを目指すのにいまほど適した時代はない。



かべどんオンライン

気まぐれでちょっとしたページを作ったので紹介。

https://www.fumi2kick.com/kabedon/

Twitter とかでアニメ鑑賞実況をやっていると、割と頻繁に「壁ドン」という表現が出てくる。まあ、私がいるクラスタのみの現象かもしれないけれども、そういうものだということにしてほしい。
この時の「壁ドン」はアニメの中でいちゃいちゃラブラブしている時などに用い、羨ましくてついかっとなり手近なところで壁を殴ってしまいそうになる状況をさす。「くそっ、また壁殴っちまったぜ……」というネットスラングからの延長発展である。
いらついてとか羨ましくてとかあるけれども、実際のところ「うおーたまらねー」と恥ずかしくころげり回るといった感情のほうに近く、「萌え転がる」といった言葉と大して差はない。

そんな時「壁ドンしたい気分」を共有できる場があるといいよねということでオンラインでドンしてその数を共有するサイトを作ってみた。
というだけのお話。

実際のところ「壁ドン」の定義が曖昧で、女性側にはまったく違う意味の「壁ドン」が最近主流となってきていた。(関連追加記事)
もちろん、隣人がうるさいときに諫める「壁ドン」もあるし、アニメで盛り上がって壁ドンというのはそれほど使われていないのかもしれないということを考えるとどうにも今ひとつ感に苛まれる。

そんな誰も使わないようなサービス/サイトなのだけれども、これはこれでいいのです。

最近は自分でサイトを作ることも無くなり、その辺の構築技術というか知識についても幾分さび付いてきていた次第。そういったサイトを作る欲そのものもずいぶん無くなってきていたので、なんかやってみようかなーっと。
jquery とか使ったことも無いし、実際に使ってみてどんなことができるのかといった感触をつかんでみたかったのですな。jqueru で cgi を非同期アクセスし json で結果を受け取るようなページが作ってみたかった。今時っぽい構成ですな。
rails といったフレームワークは使っていなくて、ruby と dbi で純粋な cgi を自前でぽちぽちと組んで使っている。このへん、道楽としてのプログラミングを楽しむためでもある。

まあ、そんな感じで作ってみたかった優先でデザインもダサく人に見せるようなサイトでは無いのだけれども、おもしろそうと思ったならば覗いてやってくださいな。



きゃくせん!

「海鮮(買い専)」という言葉がある。
確か 2chの同人板あたりで使われていた言葉で、コミケ等のイベントで本を買うだけの人を指す。要するにサークル参加をしない、クリエイターワークをしないサイドのお客様の事だ。この言葉はどちらかというと「また海鮮の野郎がよー」といった調子で侮蔑的な意味合いで使われ始めた様な記憶がある。
同人誌即売会というのは参加者同士が直接コミュニケーションする事ができる素敵な空間であって、上手い下手問わず楽しんでいきましょう。といった理想を持っていると、この買い専的な行動をとる人ってのは少々利己的に写ってしまいがちなのだな。
その買い専という言葉も使われてしばらくたつと今度はその立場の人が使い始めるようになる。
自分の事を買い専と呼び、主に「自分は絵も文も書けないのでもっぱら読ませて貰う方っす」と自分の技量のなさを卑下するような使い方をする。このように卑下するための言葉になったところで、当初の侮蔑の意味はほとんど無くなってきたと思う。

初音ミクがブレイクし、ボカロ界というものが形成され始めたときに今度は「聞き専」という言葉が誕生した。
「聞き専」の登場は「買い専」より存分に後なため侮蔑的な意味は最初から持っておらず、「自分は作曲も打ち込みもできないから、もっぱら視聴専門で応援する側っす」と卑下の所から始まっている様に見える。

私は侮蔑の意味を持っていた頃の「買い専」という言葉を強く覚えているので、「買い専」「聞き専」という言葉にどうもしっくりこないものを以前から感じていた。
自分としてはクリエイター側にいたいという願望を持っているから、受け手に徹します宣言であるそれらの言葉を嫌っているのかと思っていたけれども、それもどうも違うらしい。
この違和感はなんだろうとぼんやり考えていたら、ひとつ気がつくことがあった。なんで「買い専」「聞き専」にはうっすらと卑下の意が含まれているのだろうといった点である。「自分は作れないから消費する側に回ります、すいません」ってなんでここに「すいません」がくっつくのだろうか。
もっとわかり易く言うと、既存のメディアに置いては「買い専」「聞き専」にあたる言葉はないのである。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、CD、その他諸々においては単なる消費者、視聴者であって、受け手に回ることが当然なためそのような区別をする必要はなかったのであろう。
つまり、同人界、ボカロ界といった「アマチュアクリエーション」がメインでありつつ市場を形成している場でのみ生じ得る言葉なのではないかということだ。

そう考えると興味深い。
表現するのが当たり前、制作するのが当たり前という世界があって、享受する側が幾分申し訳なさそうにしているという構図。

まあ、最近は卑下の意味も大分薄まってきている様に見える。
それというのも、結局「買い専」「聞き専」という「お客様」がいないと「発信者」を『評価』してくれる人がいないという事になりがちだからである。お客様がつくことで市場が形成され、発信者も潤う。
なのでお客様は大切だよ、お客様あっての盛り上がりだよ。と発信者側も理解しお互いの関係を大事にしようとしている。

しかしてそれは正しい方向性なのだろうか。
結局の所、従来の市場原理を導入してそっちに誘導しようとしているようにも見えなくもない。
作り手と受け手に分かれないと市場も広がらないし、人気も出ない、なにより儲からないよ! うん、まあ、そうなんだけれどもね。そのシェアをとって儲けに繋げようという活動自体が従来のモデルに縛られているんじゃないかという様に考えるのは行き過ぎだろうか。
そう言ったように消費者が大きな存在になると、発信者の人気というのものがくっきり現れることになる。そういったヒエラルキーを無くしてみんなで広くシェアしていきましょう、というのが目標だとしたら明らかに反した世界に変貌してしまうだろう。

だからといって「みんなもクリエイター側にまわるといいよ!」とも言い辛いものである。

それでも、「作る方があたりまえ」的な空気は特殊かつ、なかなか得難いものだと思うし、それこそがこれからを作るモデルじゃないかと思うので大切にしていって欲しいところではある。



ニコゲーとスターの存在

ニコゲーというソーシャルゲームメイキングコミュニティサイトがあり、そこでずいぶんと楽しませてもらっている。
ニコゲーは、ニコニコ動画を筆頭としたドワンゴ系列のニコニコ系サイト(?)なのだが、制作と運営はドワンゴやニワンゴではなくゲーム会社のスパイクが行っている。そういえばスパイクってドワンゴ系列会社になっていたんだっけとふと思い出す様なエピソードでもある。
具体的にどのようなサイトなのかは各人で調べていただいたり、実際にアクセスしてもらうなどするとして、9月14日のオープンからこれまでの間に実際に遊んだ結果からの感想を書いてみたいと思う。


実際にどのようなゲームがあるのかといったことについては、お勧めの一部を「ぴこぱこサイクル、ニコゲー特別編」にて紹介しているのでこれをみるなどしていただきたい。
この「ぴこぱこサイクル特別編」自体、ニコゲーのアドベンチャーゲームジェネレーターで作成されている。そしてBlog等の他サイトに貼り付けることもできる。ニコゲー自体は会員専用のSNSでありログインしないと利用できないが、ゲームコンテンツ自体はこのようにタグ張り込みで外部に持ち出すこともできるので様々な応用展開が考えられるところ。
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シンキング・ログ

なんとはなしに続いている Blog 更新だけれども、過去に書いたその記事を読み返すことがあるだろうか?私は意外とこの自分のBlogを楽しく読み返す事がある。
こう数年もの年月を経ていると、過去自分が唱えていた事象が正しかったかどうか、今はあの頃と比べてどうなっているのかといった答えあわせができるのだ。あのときはこう思っていたけれども、今はこうだよなーとか、今話題になっているけれども昔あれに目をつけていたよなとか。そういった「自分の考えの正しさ」を確認することができるあたりが楽しい。間違っていたら間違っていたで、どこにその差ができたのかを考えることができる。
ようするにこれは、そのとき世間をどのように見ていたのか、そのときどのように未来をみていたのかという「考え方の記録」なのだな。

当Blogになる前の遙か以前、Blogという単語もなかったころのWEB日記時代は本当に日記だったのだけれども、そんなものを書いても自分で読み返さないことにあるとき気がついた。自分でも読み返さないものを皆が見て楽しいモノだろうか、と考え次第にレビュー記事が中心となっていく。お買い物記事やレビュー記事であれば、情報を探している人にとっても益があるし書くネタも尽きないといったところである。
しかし、個人的に「レビュー記事というのは何も生み出さない」という結論に至った。
4年ほどふあふあファクトリーというアニメや漫画のレビュー記事を書き続けるサイトをやっていたし、1年ほど書影付きで読んだラノベを全部記録する「ラノベ読書感想文」などもやってみたが、やはり個人的に得るモノは少なかったというか意図して将来に残せる何かだと見いだせなかった。
コミュ指向の人であれば、このレビュー記事から近しい趣味の仲間を作ってコミュニケートしていくんだけれども、そういった目的がなく単に消費の記録として書いていたレビュー記事では読み返して得るものがあまりにも少なく感じたのである。
実際に読み返してみると「あー、あのころこれが発売されていたのか」と思うことはあるけれども、やっぱりそのレビュー記事そのものよりその周辺にあった事件と結びつけて「このころこんなことがあった」と考える事の方が多いみたいである。

そういったあたりから、後で読み返して面白い記録とは何かといった事に対してかなりシニカルに考えているようだ。

ある程度のところから、日記ではなくコラムになってきた。
その日あったことではなく、そのとき考えた事を書き綴っておくというスタイルである。あと、どんな記事でも 3年後読み返して恥ずかしくならない様に、という縛りを自分でこっそりとかけている。そんな風に書きつづった Blog はそのとき自分はどういった考えをしていたか、という記録になっている。
書いたばかりの最新記事に耳目が集まるよりも、5年以上も前の記事が掘り起こされて話題になる方が楽しいし、嬉しい。

結局 OpenLog は誰に見せるか、見せてどうするか、それが貯まるとどうなるかだと思う。
多くの LifeLog は見せることの楽しさ、Log自体のエンタティメント性に欠けていると考える。コミュニケーション指向Logはうまくやっているけれども、どうしても「俺を見ろ」「俺サイコーだろ?褒めてくれよ」的なコミュニティになりがちで、個人的に好きではない。
なので、そのときそのときの思考を記録していくという Blog 形式が自分にはあっているのかなと再確認した。



小さい方が好きだと言える時代へ

テクノロジー、特にコンピューターとネットワークによって情報を中心とした私達の生活は大きく変化してきた。
それら情報テクノロジーで克服された物理的制約というものがいくつかあるのだが、最も大きなところでは「距離」と「時間」ではないだろうか。日本国内だけでなく、世界各国のいたるところへほとんどタイムラグなく情報やデータを送付することができるようになり物理的な距離はほとんど飛び越せた。ネットワークによる分散データベース化でサーバーにデータを蓄積することができるようになり、情報をこれまでにないような時間軸で保存し任意に取り出すことができるようになった。
本が時を超えて知識を運ぶ様に、情報という形にまとめてそれを蓄積することにより「距離」や「時間」といった物理的制約を崩し、飛び越えてくる。
これまで物理的に無理だったことを可能にする、それがテクノロジーの魅力ではないか。

「距離」と「時間」を飛び越える事ができ、その有り様を大きく変えてしまった。
では、次に変わる物理量はなんであろうか。
次にというか、既に変わりつつあるもの、それは「大きさ」なのではないかと見ている。

コンピューターネットワークが庶民の手に渡るそれ以前、「距離」「時間」そして「値段」が大きな壁として立ちはだかっていた。それゆえ、日本全国津々浦々へ品や情報をとどけるためには「大きさ」という圧倒的な力が必要ではなかっただろうか。より多くの人に、多くの地方に、均等に同じ物を、できるだけ安く、早くお届けするにはどうすればよいのか?それは大量生産、大量運輸、大量販売、それによる廉価化が必要という回答だったのではないだろうか。また、そのために、大きなシェアが必要であり、大きな人手が必要であり、大きな会社である必要があり、大きな売り上げが必要だった。同じように、個々人でも大きな権力、大きな資金となにかと大きなことが良いことだという風潮になり、「大きい」という力量が絶対的な価値として見られている。もはや、信奉といっても良いだろう。
しかしながら「距離」「時間」「情報」といったものが物理的な形を伴わなくなってきたとき、それを超えるのに力が必要でも無くなってきたとき、本当に「大きい」必要はあるのだろうか。

以前の仕組みでは、大きな会社で大勢の人手を使ってより多くの人の手に渡る商品を作るといった数値が最大になるような構成をしてきた。莫大な広告を打って認知度を上げ大量の小売店に配送して沢山の人に売るといった、多くの人に買って貰う仕組みを整備し100万枚売れないと黒字にならないという音楽CDの作り方売り方しかなかったとする。
今は、クリエイターが直接CDを作って売ることができ、本当に聞きたいと思う3000人へそれを売り、それなりの収益を上げるといったことができるようになった。
そういったダイレクトかつ小口のチャンネルを作り出したのが、コンピューターネットワークであり、情報テクノロジーである。
こうなると「なぜ大きくなくてはいけなかったのか」という理由付けが揺らいできて、これで十分なんじゃね?とマイクロチャンネルに分散していくことになるだろう。分散した先はかつての10万人、100万人といったバリューではないだろうが、そういった数字ではないもっと別な物が手に入る世界となるだろう。

しかし、これまでの世界はあまりにも「数」と「大きさ」に支配されてきた。それが良い悪いじゃなくて、数の大きさでしか物事を見る事ができない人が存在することでその支配量を知ることができる。
時にあなたは「100mを10秒で走れないからダメなのだ」と叱咤されたことはあるだろうか。多くの人は100mを10秒で走れないからそのような事を目標に持ったり、夢に見たりはしていないんじゃないかと思う。トップアスリートは10秒台で走れるとして、あなたが走れないのは努力が足りないからだろうかと言うとそんなことはない。身体能力は人それぞれで、本当に秀でている人はそれを伸ばすように特訓して10秒台を目指すが、多くの人は自分がそこまで身体能力を備えていない事をわかっているからサラリーマンだったり、クリエイターだったり、商売人だったり、マネージャーだったりといった自分の丈に合い能力を活かせる職で暮らしていくことになる。
数だけで比較するというのはそういう真のトップアスリートと凡人を比較してどうだという事に近いのではないかと思う。
実際はそういった世界の頂点と競争しているわけでなく、住んでいる地域、職種、人間関係その他もろもろの要因によって自分の手の届く距離の中で生活しているのではないだろうか。
そういった適切な範囲の生活スレッドという単位が存在するように、情報単位もマイクロクラスタ化しているものである。

これまでは、生活範囲でしか個人の力が及ばなかったが情報テクノロジーによって「距離」や「時間」(場合によってはお金)はとっくにとびこせるようになってきている。つまり「大きく」なくても、あなたの持つ情報は遠くで欲している人に的確に届けられる時代になっている。
もう、伝えるためだけに大きくある必要はないのだ。

適切な量を適切な人に伝えられればよいということにみんなが気づいたとき、「大きさ」信奉は瓦解するものと思われる。
しかし、そういう世界においても「より多く」の人に伝えたい場面はあるだろうし、みんなをまとめないと国単位では立ちゆかないこともあるだろう。そういう場面は残るため、全てがマイクロクラスタ化するわけではない。
ただむやみに「大きければよいだろう」という無駄な価値観が無くなっていくのではないかということである。



叫び声〜心が折れたワケではないと思う

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液晶で相方がつまらない毎日使っていた喫茶店のAIの生物学。さくらインターネットの再帰だ僕を見た時代があった模様は自信がある!wwwや候補になり原稿を送る流れを教授だ!!

レイニー止めも主流になればバタフライ効果が男だっ!

国内をリフレ政策が水平にせずタクシーという奴より私はまだ。請求権が村まで完成したし。洗脳してボンバーマンの貧乏人にネタばれある人でしょうか証明していたら。5人の三浦の東方厨とか言われるスクライド×ドリームクラブ。

赤血球のバクマンからワケて・・・・w。相互フォローでもマニュアルで大人になったら。霊界とかのトイレな視聴者との返答。

人権擁護法案のチャットで使ってたHNが提唱すれば、今はまだ。 シーシャは川にたどり着く前から…キズパワーパッド良いタイコだったらヤンデレ。藤村歩、国出来る入門書を書くという壮大。マスコットキャラに……ゴクリ・・・・私もそろそろらいおん。

大辞林、マイリス超えた愛とかちょっと・・・尻尾。彼氏彼女の事情、今見たギガないぞおさらばだね!わたしは傍。サバトのヒーローだよねイメージ的にGLAYの正義感で後からは。トリビュートしている知人から冷蔵庫にボクかな……技術者なら現実を上回る日がある以外では。おまん〜高校入ったら頭使ってたあいこん…!

ガトーショコラも個性がなくなる可能性高いお酒で相方。日用品でも意味も無い時代はまだですかMeiryo。わたしが子どもだったころ〜アナタはできる大学生を総称らしいですよルー・バーロウを職人とか。箱根もいい顔とツィッターにおいてはマジョリティという性質。タコスと英語できない理由がわかった子とは構図を。

ベイダー〜今日までに秋葉原混みすぎ断念した自分がもしFourSquareしてる! メロディーもこの間そんなアナタに言いたいヨークシャーテリアだみたいになる子育てとか。3分前知識だけは信用できぬ事態という振る舞いを本質的には。PvPになると証明になるなコレはなぜかイマって言って電話番号。

決定版!MBPで私は、またドメインは。 モサドのバイアスロン、良い仕事か・・小学校はともかく。定期的に行きたくなる意味ないじゃんみたいです、生理的に映画があるのに。

ダンゴムシをさんぽのネタ探し。

PSP版の契約書や手が動かないトコロを…… 徒然と工事してたwwwというか。今日一番おいしかったぶり大根が目にしている芝生。単価は一昨日された生徒の実機。気象予報士が、坂道、最初がなぁ最初からその部分だけが対象になるが。事情で馬鹿だなぁ中央値は自販機。圧巻すぎる主人公、って観点からも明白。トルコはまた自重しなさい自分はそういう方向だと思うゆえに感想などは。若本規夫で大人になりつつあるボカロP。

マヌケすぎる主人公で翻訳してる。



電子書籍端末は双方向化を目指せないのか

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いつものように通勤電車の中でラノベを読んでいた時に、ふと文庫に挟まっている「愛読者カード」に目がとまる。いわゆるアンケートはがきという奴だ。
書籍が紙の本という形態をとり続けることについては、実は読み手にとってもメリットが多いのでこのままでもある程度はかまわないのだけれども、この愛読者カードが読者の郵送によるものという形態をとり続けるのは果たして良いことなのだろうか。

作家さんにとって「ファンレター」なるものはうれしい存在であると聞く。そういった作品に対する反応というのはどんなジャンルの作者であっても気になるものだろう。
まあ、今ではWEB上にあるレビューサイトやBlogでの読後レビュー記事などを作家本人が読んで回るといったことも可能ではあろう。しかし、そういった記事はどこにあるかわからないし偶発的な存在でしかないことが多い。
そうではなくて、アンケートや感想といった読者側にある情報を出版社はもっと低コストで数多く集める努力をしてみても良いのではないだろうかということを考えたのである。
ラノベ界隈でざっくりと見たところでは、WEBやメールでファンレターを集めている出版社はなかった。かろうじて全部ひっくるめてのご意見フォームを設置しているのがファミ通文庫のFBオンラインのみであるという状況。電撃はBBSを設置しているけれどもあんまり稼働していないなあ、publicに見える場というのも使いにくいのかもしれない。

そこで考えた。KindleでもiPadでもSONY Readerでもなんでも良いから、本を読み終えたときに端末以上で読後アンケートをとってその場で出版社にネット経由送信してしまえば良いのではないかと。これなら、読者アンケートの敷居はグンと低くなるし、出版社も数多くの反響を手にすることができる。
そして、それが行えるというのがデジタル端末ならではな付加価値なんじゃないかと。
その後、アンケートを集計して再配信したり、作家からのコメントが寄せられたりといった風に展開すれば低価格なファンサービスにもなるのではないか。

この提供者と受容者の相互関連性というのが今後ことさらにクローズアップされていくのだと思う。
そんな中にあって、旧来然としたメディア提供者は一方通行であり続けようとしている。メディアによっては確かに一方通行になりがちなのはしょうがないのだけれども、デジタル化オンライン化によって相互通信が可能になってきている。そして、人々はその相互作用性に価値を見いだし、依存し始めている。
そのような流れを生かしてこそのデジタル化なんじゃないだろうか。

プロのメディアクリエイターであっても「視聴者の生の声が聞けるから」といってニコニコ動画に投稿している例は少なくない。それと同じで、読者の声を拾う手段がいつまでたっても現れないのであれば novelist.jp の様なネット上の作品発表空間が力をつけていくのかもしれない。

[追記 Apr.04.2010]
「ラノベ界隈でざっくりと見たところでは、WEBやメールでファンレターを集めている出版社はなかった。」と書いちゃいましたが、MF文庫Jが既にアンケートはがきを廃止してWEBでのアンケートフォームへと移行していました。おそらくは2009年10月以降の刊行本からだと思うのですが、奥付にQRコードがつくようになりました。それを経由してアンケートフォームへ飛べます。
アンケートに答えると、携帯電話用待ち受け画像がもらえるということでご褒美としても手頃で良いサービスだと思います。
ただし、このアンケートフォーム、携帯電話からのアクセスしか受け付けません。DoCoMo経由のAndroidでははじかれました。読者層を若いあたりに想定していると推測するに携帯電話(除くスマートフォン)のみというのでも良いのかもしれませんが、もうちょっと幅があった方がうれしい気がします。




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