つぶやき 04/01/2002
「電撃萌王(もえおう)」なる雑誌が出版された。
雑誌表紙のあおりによれば「萌えるビジュアルマガジン」だそうだ。
よするに「萌え」と称された 2次元ギャルコンテンツの寄せ集めムックと
いったところか。2次元という言葉に抵抗のある人は「マンガ/アニメ/ゲーム」
と読み替え。ある意味日本が最も得意とするオリジナルコンテンツであり、
独創的な町人文化の粋である。
雑誌の内容的にはコミック電撃大王をベースとし、その作家とコンテンツを
利用した実験かつ意欲的な構成。見方を変えると大王本紙の貴重な財産を
食い潰している感もある。まあ、でもなんつーか、コミック電撃大王は
あくまでマンガ雑誌なのでその枠組みのなかではやりづらいことをこういった
形で分離しました、みたいなものかな。アニメディアとMEGAMIマガジンみたいな
関係で。
第一印象としては「電撃が作ったマジキュー・プレミアム」って感じですな。
マジキュー・プレミアムを知らない人のために説明すると、各界(主にギャルゲー
メーカー)のイラストレーターに 1〜4ページくらいずつ原稿を依頼してそれを
寄せ集めて作った感のある300ページものギャル絵コンテンツ。本屋で買える
エッチなしのよろず同人誌的なもの、というとイメージできるか。
マジキューもそうだけど、よくもまあこれだけの人を集めたよなあ。編集は
きっと死にまくっているいるだろう。
良く集めたなと思うとともに、世の中にはこんなにギャル絵描きがいるのかー、
とちょっと感心してみる。いや、感心するまでもなく、PC用18禁エロゲーの
発売本数とかを見てみると絵描きってのは物凄い数がいるらしいということが
見て取れるわけで。
そういった人たちを一同に会してこういった本を作れるのはある意味すごいなあ
と思うとともに、「萌え」なる要素の無駄遣いではないかとも思えるわけだ。
こうして萌えコンテンツが一般化したとしたらそれは本道なのだろうか。
オタク文化というのは基本的にはカミングアウト文化だと思う。いわゆる世間
一般から離れたところに存在しているし、なによりそれを享受しているオタク層
はそれが世間的に正しいものでないことを認識・理解している。いうなれば、
「ダメを尊ぶ文化」であり、その微妙なテイストを楽しめる所に本質がある。
例えばデ・ジ・キャラットは、秋葉原という chaos な街を舞台とし「クソオタ共」
と悪態をつく存在である。だがオタクを馬鹿にしているそのキャラクターを、
皆可愛がる。自分のことをオタクだと思っているにも関わらず、馬鹿にされたと
怒りだす者はない。すべてをわかっている上で楽しんでいるのだ。
そういったオタク文化から発生した「萌え」がちょいと先に進もうとしている。
そもそも「萌え」とはなんなのか、実は明確な定義はない。
「あなたにとって萌えとはどういう意味ですか」ということを冷静になって
アンケート取ってみるとたぶん人によって違うことを言うのではないだろうか。
「可愛いこと」「愛しいこと」「たまらないこと」「大好きなこと」場合に
よっては女の娘キャラ対象でなく単純に好き嫌いを「萌え/萎え」で表現して
いるかもしれない。(例:今日の夕飯おいしくて萌え〜)
そういった既存の定義を離れ新しい感情の定義となれば良いのだが、まだそこ
まで到達している人種は少ないようだ。
オタク文化は「ダメを尊ぶ」と先に書いたがもう一つ付け加えるならば
「お約束を尊ぶ」文化でもある。このお約束というのは過去存在した作品の
データベースを元にもっとも適合率の高いシチュエーションの事である。
有り体な言葉で言えば「ありがち」なんだか、そのお約束を楽しむ事がなぜか
オタク間では暗黙の了解となっている節がある。これ自体も「素晴らしい物から
ハズレたダメな物を楽しむ」と考える事ができなくはない。ある意味コンテンツ
の符合化であり、その共通の符合を説明なしで共有できるのがオタク仲間なので
ある。だが、そのパロディとしてのお約束符合も本流になってしまうと色褪せる。
それはもうお約束という名のパロディではなく当たり前の存在となってしまう
からだ。かつては一世を風靡した設定である「眼鏡、病弱、読書好き」という
キャラクターも露出過多で褪せてしまうととたんに人気は無くなる。「卒業」の
仲本や「ときメモ」の如月といったキャラクターの栄光は「シスプリ」の鞠絵
にはもうない。今、眼鏡っ娘というと「ちょっととろくて、でも巨乳」という
設定の符合となっている(意外性の楽しさが軸のようだ)。
で、当然「電撃萌王」も「萌え」を語るにあたってそのような「お約束文化」
を利用しているし、そうでないと萌系とは言えないわけだ。後は、萌え文化の
浪費によってそれ全体が陳腐化しないことを祈る。
ボクは音葉ちゃんが良いと思いました(ぉ