次のダウンサイジングは大きな変革となるか

2010年の年始にあたり、当Blogの過去記事を見返してみたりしていた。
その中で、2005年1月に『ソフトウェアと大量消費の時代』という記事を書いているのを見つけた。これは「00年代後半はこうなる!」といった予測記事で、実際その様になったのかを比較しながら読み返すとなかなかに楽しい。記事中ではソフトウェアと書いているけれども、これはコンピュータープログラムのことだけではなくてコンテンツや情報といったデータもひっくるめての表現ですな。
じゃあ2010年から5年はどのようなコンピューティングワールドになるのかといったことを考えてみることにした。また5年後に読んで笑えるように。

90年代はパーソナルコンピューティングの時代で、00年代はネットワークコンピューティングの時代だったのではないかと思う。インターネットが発展しネットワーク上で様々なものが提供されるようになって、私たちの生活は驚いても良いくらい変化した。冷静に振り返ると「さすが21世紀」と言えるようなことが多々あったりもする。
じゃあ10年代は変化するのかと聞かれたら、やっぱり劇的な変化が起こるような気がしている。ただ、その際個人におけるコンピューティングというものが大きく変化して何か別なものになりうるくらいの所にいるんじゃないかというのが今のところの私の見解である。
そのパラダイムシフトといっても良いくらい大きな変化がコンピューティングに訪れたとして、それが良いことか悪いことかはわからない。エンジニアとしてその変革にがんばってついて行くか、別物でおもしろくないからと割り切って旧来のコンピューティングで楽しんでいくのか、見極めをしなくてはいけない時が近づいている。
これからのコンピューティングに何が起こるのかというと「ダウンサイジングの波」ではないかと考えている。
「ダウンサイジング」というとこれまでもあった事だし耳慣れた、あるいは使い古された言葉だと思われるかもしれない。だが過去のダウンサイジングでどれだけコンピューティングが変化したかを振り返ると、次の波に対しても身を固くして構えざるをえないのではないだろうか。

平たくいうと「PCが主役の時代は終わりPD(ポータブルデバイス)の時代になる」といったところ。


小サイズ化、低コスト化、開発の簡易さ、ユーザーの拡大、色々な要素を含みつつ小さくパワフルなコンピューターに移行しつつ、サービス体型が変わっていくことをひっくるめて「ダウンサイジング」と呼ばれてきた。
コンピューターセンターにあるメインフレームで伝票処理を行う時代から始まって、会社ごとのミニコンで処理が行える様になり、ワークステーションでのネットワークサーバー時代を経て、現代はサーバーの多くがPCとなった。そういったダウンサイジングによって安く大量になっていき、その流れについていけたコンピューター・サービス企業が大きくなっているという側面も持っている。
そういったダウンサイジングでメインストリームでなくなった大きな器がいらなくなるかというとそうではない。これまでは「なんでもかんでも」それにやらせてきただけで、一段小さなもので済むような軽度な処理は新しく出てきたものにやらせた方が良い。しかし、大きな器でないとできないことというのは確実にあり、それを求める人がいる以上無くなることはない。それまでのなんでもかんでもがおかしくて本当に必要とする人だけが適正な数だけ残っただけの事である。
ダウンサイジングの流れにおいて今は何かというと、PC全盛期の下りはじめ時期なんではないかと思うのだ。ダウンサイジングといっても、デスクトップPCやPCサーバーがノート型PCに置き換わるという意味では無い。まあ、それはそれでUPSいらなくなるし、十分運用できるようなパワーを持っていたりもするのだけれどもそれはユーススタイルに変化をもたらしてまではいない。
おそらく次にくるのはコンピューターの利用形態が変わるくらいの変化。これまではなんでもかんでもPCやPCサーバーだったのが、「あれ?ひょっとしてPCじゃなくても良くね?」と気づき始めている頃。ポータブルデバイスコンピューティングへの移行である。

携帯電話は十分に情報機器へと変貌し、ノートPCでもPDAでもないポータブルコンピューティングデバイスが本格的に普及しつつある。
携帯電話やPDじゃまとまった量の文章を作成できないじゃないか、とかPCじゃないとプログラミングやコンテンツの作成ができないじゃないか、と思われるかもしれない。それらはPCが残るべき領域である。だが、メールやWEBの閲覧、単文をつぶやく行為などはPCでなくても十分でむしろPC以外でやる人が増えているのではないだろうか。
PCでもできること、PCじゃないとできないこと、PCじゃなくてもできること、これらが明確化して使い分けられていくのだと思う。そのとき何を使おうがユーザーにとってみればどれもコンピューティング体験なんだよね。
そういったPD上でのコンピューティング体験を実用的なものにしてくれているのが、ネットワーク上のアプリケーション。いわゆるWEBアプリケーションと言われるもので、それを直接使ったり、連携でどこでも一意のデータを扱うことができたりする恩恵を受けている。かつてのPDAはPCが母艦となりその一部を持ち出すといった形態であったが、今はネットワーク上の情報をハブにしてPCからもPDからも同じ情報体験を提供できるようになっている。
なんでもかんでもWEBアプリケーション化してしまい、パッケージソフトの領域は無くなっていくというのが00年代に唱えられていた題目だったのではないかと思う。2010年になってWEBアプリケーションが実用段階になっているが、すべてがかつて描いていた様な世界になっているかというと若干異なっているのではないかとも感じることがある。
かつてのWEBアプリケーションというのは、サーバー側にすべてがあってクライアント側は単なる操作端末として存在しているようなものとして描かれていた。ところが、実際にそれを実現する過程において実情に沿うように変化していき、クライアント側での処理がほとんどを占めるようになってきた。わかりやすい言葉で示すとRIA(Rich Internet Apprication)と呼ばれるもので、クライアントサイドにリッチなインタフェースを実行させサーバーはそのインタフェースの実行に携わらずただデータを渡してやる形になっている。
つまり、ネットワーク時代のアプリケーションにおいてサーバーが演じるのは高性能でどこからでもアクセスできる「ストレージ」なのである。じゃあ、サーバーが担うはずだった高負荷処理はどこへというと、それがPDに課せられるコンピューティング的役割となる。
つまり、次世代はPCサーバーの時代から、PD単位でのマイクロサーバー&アプリケーションへと移行していくのではないかということだ。PCサーバーはパワフルなストレージとして利用されていくが、極端なサーバーサイドの時代は終了していくだろう。
次のデータ&サービスフローはどうなるかというと、おそらくはPD上のマイクロサーバー同士が連携してノードとなり蜘蛛の巣状のトポロジーを構築していくのだろう。そのようなデータ連係が有効なアプリケーションorコミュニケーションを開発することが今の課題と考えている。

それまで意識しながら使わざるを得なかったものが潤沢になって意識する必要が無くなると大きく世界が変わることがある。
例えばコードのステップ数や利用時間でコンピュータ利用に課金されていた頃からの解放とか、フロッピーディスク容量を気にしながら使っていた頃からの解放とか、CPUパワーだとか、ダイアルアップだとか、テレホタイムだとか。
PD主体のコンピューティングが作り出すのはユビキタスコンピューティングであり、それを支えるのがユビキタスネットワークである。これらは実際に実現すべき世界としてすっかり定着しているように思える。じゃあ実現できているかというと、かなり良い感じにはなってきたがまだ足りない部分がある。(2010年の時点で)我々はあまりにもネットワーク回線を意識しすぎているのではないか。
モバイルネットワークだとか、ポータブルコンピューティングだとか言っても結局はユーザーがわざわざネットワーク回線を用意しないとならない。または端末によって回線が決定されていたりする。そのことを当たり前のように思っているが、実はかなり大きな阻害要因なのではないだろうか。
この部分を問題とし、より理想的な形を求める形で提供されているのがAmazonのKindleである。
KindleはWisper Netと言われる無線ネットワークを持っており、そこを介して電子書籍を買ったりその他情報を得たりしているがユーザーはWisper Netに対しての契約を特に意識していない。ただ単にKindleをAmazonから買っただけである。そういった回線的事情はAmazonによって隠蔽され、Wisper NetはあくまでKindleというサービスとセットで提供される。まあ、回線利用料が電子書籍購入価格に含まれているというのはご愛敬としても、契約手続きや月額費用を考えなくて良いし本当に書籍を買うことだけを意識していれば良いのだ。
この回線を意識しないというのは使ってみると本当に大きい。
PCでAmazon.comを閲覧していてKindleでも売られている本の所にくると購入ボタンの下にサンプル閲覧ボタンがついている。PC上でそのサンプルボタンをポチッと押すと、Kindleにサンプルが届いている。もちろん、PC上で購入ボタンを押したら買った本がKindleに届いている。途中の経路をまったく意識せずともAmazonストアとKindleが繋がっているのだ。理屈ではわかっていても、実際に体験すると何とも言えない感覚に襲われる。
おそらくみんな見ている世界は同じなのだ。ネットワークはどこにでもあるべきだし、サービスとネットワークを一緒にして提供したいに違いない。だけれども、現在の所ワイアレス通信回線を持っている企業が限られている上に様々な制約がありネットワーク部分を切り離さざるを得ない。だからAppleは「電話機」などというものを作らないといけなかったのだと思う、その先に見ているユビキタスコンピューティングに必要なネットワーク回線を手に入れるために。
そういった全てのインフラがサービスありきのものとなり隠蔽されたとき新たな体験、世界を生み出すに違いない。
ユーザーがPDから回線を意識しなくなるときが次のコンピューティング世代の始まりである。

あとがき。
ポータブルデバイスのOSがLinuxになりJavaになり、その上で動作するアプリケーションのプログラミングをすることが専門的な技術ではなくなってきていることも交えて書きたかったのだけれどもうまいこと繋がらなかったので割愛。




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