「ロボットの天才」を読んだ

「ロボットの天才」という本を読んだ。「クロイノ」で有名なロボットクリエイタ-、高橋智隆氏のエッセイ。氏らしく技術的な内容が出てこないので本当に自身のロボットとそれを取り巻く環境についてのエッセイといった感じ。
ロボット製作というと工学的技術論かつ研究者視点で語られる物だが、高橋氏はデザインや仕草といった見た目から入り、それにこだわり続ける人。今までいなかったポストなので、丁度すっぽりと収まり独自のポジションを築くことができている。
「クロイノ」ができたときに、お披露目の意味で ROBOONE に出場。ただ、クロイノは操縦型ではないので決勝進出しながらも辞退している。その ROBOONE 決勝をたまたま見に行っていたので自分の目で見ているのだがクロイノのその動きは衝撃的ではあった。ただ、見た瞬間「ああ、マグダンの人か」と思ったので、私としては「マグダン」の方が衝撃的であったのかもしれない。
マグダンは足の裏に電磁石が付いていて、鉄板の上だけを歩ける。そんな反則的な二足歩行ロボットであるが、その歩き方、動きは他とはまったく異なる物であり、とてもインパクトがあった。それを見たとき、ああこの人は多少ウソをついてでもこのモーションを表現したいんだと思った物だ。
技術的には反則かもしれないけれども、見た目問題がないように裏でウソをつく。それが多少ウソであったとしても、エンドユーザーからみて心地よい見目ならばそれでよいのである。って、こないだも同じ様な事を書きましたね。そう、ゲーム作りの舞台裏と大差ないのですよ。
ひいていえば、大抵のエンターテイメントはそんなものかもしれない。

本で語られている全てに熱く同意するわけでないけれども、最後に書かれている「ロボットは家庭に入ってくる」の後に続く「ただし最初はなんの役にもたたないだろう」というのには激しく同意。
介護ができなくてはいけないとか、話し相手にならなければならないとか、そういった事は必要がないと思う。日本人形みたいにガラスケースに収めてタンスの上に飾られているだけでも良いのではないだろうか。いや、むしろ、飾っておきたくなるような存在でなくてはならない。
AIBO は確かに家庭に入ってきたが、あれは「動いているところが可愛い」のであって、動いていない状態で飾っておいて嬉しいまでは至れなかった。なので飽きる。動いていないときでも、そこに存在していて欲しい、それが家庭に入り込む重要な要素だと思う。
なんでそんな事を力説しているのかというと、私の中では最近のキャラクターフィギュアブームとリンクしているからですよ。
リアルドール(高級ダッチワイフ)も飽きてくると「愛でる」という感情だけが残り、最終的に等身大の着せ替え人形となっていくものだという。そういった感情移入と、そこにいて欲しい存在、家庭用ロボットもその辺が落ち着きどころなのではないかと。
でも、実際「パロ」なんかはかなり絶妙のポジションにいるよな。

仲間と話をしていたのだが、この辺の自作ロボット制作者界隈って「まじんがあの人」「ハジメロボットの人」「メタリックファイターの人」となんとなくロボットの名前で覚えていたりするんだよね。だから高橋氏も「クロイノの人」なのだ。
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