萌えていますか?

ここしばらく、各地で「萌え」という言葉の定義に対する議論が活発な様である。
私も昔は「萌え」の定義については語ることがあったが、最近は面倒というか「ひとそれぞれで良いんじゃない」とか言う感じで興味が薄らいだ感じである。
それというのもマスコミで「萌え」という単語が取り上げられるようになったのは良いが、どっか違った方向を向いていてとんちんかんな回答しかなかったというのが経緯にある。これをして私的には「萌えという言葉の再定義と意味の死亡」としている。
よするに今「萌え」と言っている奴はださいのだよ、みたいな悲観的突き放しによる解決なのだな。
とはいえ、ここ数日あちこちで放談されている「萌えの定義」がちょっと面白いので首をつっこみたくなってしまった次第。

見たところ火付け役となったのはasahi.comの社会欄にある記事な雰囲気。
なるほど、萌えに対する動揺をまとめるとこんな感じか。
まあ、他人の意見に口を挟むと水掛け論にしかならないので個人の見解を書くだけで終わらせることにしよう。

私個人が感じている「萌え」という言葉と感情は基本的に「かわいい」という形容の発展である。
ただ可愛いなら「かわいい」と表現すれば終わるのだが、もうちょっと深い分類化された感情の表現なのだな。
考えるに「萌え」という定義は「かわいい!たまらん!」という状態を示すモノなのではないだろうか。「かわいい」だけではなく、それに付随して「たまらない」という感情が噴出する様子がくっついてくる。で、意味が一様に定義されないのはこの「たまらん」の部分に対する解釈が各人ばらばらなためではないかと思うのだ。
最近のどこか違う萌え談義、つまり萌え世代でない人が理解しようと定義する言葉において、この「たまらない」ものがイコール「性的衝動」なのだと解釈されているのだな。まあ、確かに性的衝動としてしまえば多くの人にとって理解しやすい言葉となるわけだ。
萌えキャラをみて「かわいい」と思う、そう思うと同時に「性的興奮」がこみ上げてきてたまらない。まあ、ある意味間違ってはいないのだけれどもでもちょっと違うのね。

可愛いキャラを見て噴出する感情である「たまらない」の規定を考えてみると、意外と繊細かつ多岐にわたっておこなっているのではないだろうか。
「かわいい」
→「思わず恥ずかしくなってしまうがそれは押さえねばならない感情だ=たまらない」
→「じっとしてられず転げ回りたくなるが押さえねばならない=たまらない」
→「こんなこともしてくれるのかと妄想するが押さえねばならない=たまらない」
→「もっとこの感情を浴びるように感じたいが押さえねば=たまらない」
たまらないという感情は実は何かを押さえつけているがゆえに生まれるものである。
なんで押さえつけないとならないかというと世間の目を気にしているからですな。
そして、この「本当は○○したいんだけれども、それは押さえなくては」という葛藤が「かわいい」という快楽とともに訪れることにより、微妙な心のこそばゆさを得ることができる。そういったプチ葛藤状態が我々を「萌え」の虜にするエッセンスなのではないだろうか。

さらに発展させると、我々萌えオタは現実と空想の区別がついているからこそ「萌え」という感情を会得しているのではないかという議論もできそうな気がするがそれはまた別の機会に。

—–




You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

Leave a Reply