ネットとコンテンツと暴発力

ぴょんきー松尾が「任意読本〜任意ラヂヲ完全解説集」を持ってくる。
再販されたときに買っておいて〜、とたのんで査収しておいて貰ったものだ。それが今頃届いた次第。(あ、本代渡すの忘れてた>ぴょんきー)

あー、なんか改めてみるとなんか懐かしい感じやね。2002年のインターネット(の片隅)で話題だったコンテンツの一つであると断言できるし。
任意ラジオの歴史として書いてある第1回の公開後 2日目に YU-SHOW Bomb(ビュー数が多い人気サイトにリンクを張られてとてつもないアクセスがある様)を食らってサーバーが落ちるってのが懐かしいやね。あれで一気に元ネタの個人ニュースサイトに広まって、後は見てのとおり。実は YU-SHOW さんにタレこんだのは私だったりするので懐かしいエピソードになっているわけだが。
まあ、ネタとして使われているので遅かれ早かれ伝わっていたであろうし、ふぁん氏もそれを狙っての事だったと思われるが。
でも当初はアンテナ系日記サイトを中心として話題になっていただけだったので、それがオタク系個人ニュースサイト(もしくはそのコミュニティにいる日記)まで伝播するかどうかが成否の要であったと思っている。

ここ最近のネットコンテンツを見ていると、それがヒットするかどうかのカギは個人の日記および個人ニュースサイトにかかっていると言っても良い。
日記もしくはニュースリンク(便宜のため以下まとめてウェブログとする)に取り上げられるということはその記述者にとって興味深い内容であるということで、ここで小さく視聴者を掴んでいる。コンテンツを見つけてそれを気に入るか入らないかというのは個人的嗜好にかかってくるので全員がそれを記すことは無いと思われる。だけれども、ウェブログに置いてはその書かれた物を読む人はおおよそ同じ嗜好を持つもの同士である事が多い。同じ趣味を持つ物のウェブログは自分にとっても面白いのでそれを読みに行く、そして自分にとって興味深いトピックを見つけたのでそれを自分のウェブログに記す、それをまた誰かが見るといったフローで情報がバケツリレーで伝わっていく。P2P 型の情報伝播トポロジーである。
ここで流れていくのは情報であるところが Napster 等のファイル共有システムとは違うし、特定のアプリケーションもサーバーも必要としない。
ポイントとなるのが、各ロガー(記述人)の趣味嗜好でそれら情報がフィルタリングされるところである。コンテンツ自体がさして面白くも無い場合、それを紹介しようという人があまりおらず伝達はされずにノードは切断される。逆に誰が見ても面白い物であった場合はまんべんなく情報が行き渡る。
自分の所のページが個人ニュースサイトに掲載された場合が最もわかりやすいのだが、その情報が伝わるノードを追っかけていくとかなり面白い。本当に 1点の紹介から始まってそれが網の目状に広がっていくのである。まあ、そんな人気ページを作れたことはほとんど無いので滅多にお目にかかれないのだが。

そういった様にウェブログで取り上げられてソレが伝播するといった流れに乗ることさえできれば認知度が爆発的に上がるし、認知度が好意的に上がればそれは人気があるということになる。あとは話題が話題を呼びそれなりに話が膨らんでいく。
だが、逆に自分からウェブログに飛び込み利用することで爆発的な波及力を持つという作戦に出る者が現れた。それが偽春菜(後の任意、何か、伺か)であり、任意ラジオであった。
偽春菜(以後「何か」)がウェブログの更新ヘッドライン機能を持ったのは突然のことであり、ヘッドラインを取られる各サイトには何も連絡はなかったという。各サイトは自分の所へのアクセスログで突然の来訪者を知り、その正体が「何か」であることをログを辿ることで知ったと聞く。そしてその正体がデスクトップアプリケーションである事に興味を示し自サイトで紹介し、それが広まっていった。任意ラジオの場合はコンテンツ内で各ウェブログや管理者の名前を出し劇中のネタとしている。
どちらも突然のことであり、相手先のサイトにきつく怒られても当然ではないかとも思われる様な行為だ。しかし、コンテンツ自体の楽しさの方が勝ることにより各ウェブログ管理者はそれを容認してしまった。(ひょっとしたら一部は怒ったのかもしれないが)そのとまどいと受け入れの微妙なバランスを成し得た理由がオタクとしての共感と理解性だったのだろう。
おそらく、この一連の流れが無かった場合どちらも現在ほどの広まりと支持を受けることはなかったであろうと思われる。
まあ、任意ラジオは「何か」が行ってきたことを意図して再現しようとしていたのだが。

それでは今後もこのように各ウェブログを巻き込む形で宣伝流布を行っていけば人気コンテンツがガンガン作れるのだろうか。ある意味では正しく、ある意味では間違いだろう。
ちゆ12歳が本を出したり、侍魂の健さんが鉄拳4のCMをやったり、健さんとひろゆき氏がアプリケーションソフトのパッケージに載ったりとかいうのも発展形
ではある。ゲームのレビューを人気サイトの管理人にやって貰うという試みも実際になされている。
しかし、基本的にはウェブログを書いている一人一人がコンシューマである事を忘れてはいけない。そしてそれらの人に受け入れられるか蹴られるかは各人の趣向に因るのである。

任意ラジオのスタッフ陣から出ている各種コメントを読むにプロデュースの成功とそれに対する大きな自信を持っている様に見受けられる。まあ、意図してやったことが思った通りになっているので悪くはない。
しかしなんというかやっぱりまったくのオリジナルコンテンツでなくて、既存のコンテンツを元にした 2次創作物であったからの結果じゃないかという疑念もある。まあ、これは単なる私のやっかみでしかないんだが。
全くの無名がゼロから新しいコンテンツを作成したとして、それを波に乗せるのは洒落にならないくらい大変なことである。最近だと「月姫」がそれを成し得た成功者であろうか。
そうでない場合、2次創作物的な物のほうがオタク的に受け入れの閾値はぐーんと低くなる傾向にある。だからこそ受け入れやすいし広まりやすい。
つまり、ウェブログコミュニティに対する暴力的とも言える介入も「さくら」というキャラクターが既に存在し人気もあったから受け入れられていたのだという事を付加しておきたいのである。
もちろんそれは悪いことではない。むしろそれだからこそ皆に受け入れられる、という部分を大切に確実に伸ばしたところは賛辞すべき事象である。オリジナルでも同じ事ができたかという疑念もあるが、良くそれを為し遂げたという尊念の方が幾分大きいので。

世の中良い物がうけるかといったらそうではない、よりよくプロモードできる力の方が重要である。良い物新しい物という要素はそのプロモートの手段となるだけである。
売り込み、営業、皆が望む物を適時提供、そういった能力が自分には物凄く欠如しているため、うまいことやっている人がうらやましく思える。ようするにそれだけ。




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