長時間ゲームをする理由を考える


『圧倒的遊戯ムゲンソウルズ』というゲームを久々に遊び込んでいる。
個人的な感覚では総プレイ時間が100時間を超えると「あ~遊びこんだな~」という手応えを得るようだ。それは多分、他の途中で投げ出したゲームが大体 20時間未満とかだから 100時間も行けたら存分に何かを超えていると判断できるからなんじゃないかと思っている。

ムゲンソウルズはジャンルとしてはRPGで、美少女絶対神『シュシュ』が8つの萌え属性を表現する姿に変化して世界各地を萌え落として全てを下僕にしていく、といった割とアレな感じの設定。シュシュのピンク色したちっこい姿は「わがまま」属性で、その他7つの属性に変化していく。そんな設定なので登場人物が全てアレな感じの性癖や性格を持っていてドタバタギャグとして結構楽しい。
実のところあまり情報を得ないで買ったので、そんな内容だったのかとプレイを始めてびっくりした経緯がある。これはこれでかなり楽しいので個人的に当たりではあったのだが。
そんなゲームをなんで買ったのかというと、キャラとかストーリーとかの前にゲームシステムが超ヤリ込み系でツボりそうだったからなんですな。
私をよく知る人は、日本一ソフトウェアのゲームが大好きで『魔界戦記ディスガイア』を良くプレイしていることをわかっていると思う。そのディスガイアシリーズとは関係がなく、制作会社も違うのだけれどもだいたい同じような路線で作られているシステムというあたりに興味を持ったのである。
佐藤天平氏が楽曲提供をしていたりするのでディスガイアとスタッフがかぶっているようなことを言われているようだけれども、実際は一部にゲスト参加的なニュアンスっぽい。佐藤天平氏の楽曲も OP/ED 以外は10曲と2割ぐらいの参加率となっている。
正直完成度とかお勧めしにくいところはあるのだけれども、そういったバランスの歪みってのは逆にゲームの魅力だったりするのでこれはこれで良いのです。後は自分が気に入るかどうか。

そんなこんなで始めたムゲンソウルズだけれども、ヤリ込みインフレゲーとしては割と期待通りでダラダラと遊ぶことができる内容になってる。
大体 50時間くらいかけて Lv100~200に達したところでストーリーモードを終えることができて通常EDで1周終了なのだが、ここまでがチュートリアルで本番はこれからといったディスガイア的な遊び方ができるようになっていく。
ゲームシステムやボーナス要素は正直複雑で全然理解できないし、それらを使わなくても1周クリアできるのだけれども、その先稼ぎや育成といったターンに入るとこれら無駄に見えたシステムやパラメータが全て必要になってくる。そして、おーそういうことかとか言いつつ新しい稼ぎルートを見いだして更なる高見へと上っていくのだ。
この手のヤリ込みゲーにはおなじみの汎用キャラクターと育成のための転生もあって、これがまた蟻地獄的な要素だったりする。転生はキャラクターを鍛えるために転職やパラメータ引き継ぎを行うのだけれども、そのときに育てたキャラクターのレベルが 1 に戻ってしまう。ヤリ込みに慣れていないと「レベルが1に戻るなんてとんでもない!」と思うかもしれないけれど、慣れた者にとってはレベル1からのやり直しなんて日常の行為である。
最初の1周のときは 50時間かけて Lv100 まで育てているけれども、それを超えて Lv1000 に達した頃には、Lv1からLv100まで育て直すのには 5分くらいしかかからないようになっている。そういった効率的な稼ぎや育てパターンが次々に確立していってガンガン転生してパラメータがずんどこ上がっていく作業を楽しむようになっていくのだ。ディスガイア3の時は最終的にカンストする Lv9999 のキャラをLv1から作るのに30分くらいしかかからない位になっていたしなあ。

そういう意味でヤリ込みゲーにおけるストーリーモードというのは幾分邪魔な存在である。
多くのRPGのストーリーはテイストが決まっているので、口に合わない時は結構つらい。しかし、汎用キャラクターを育てるというのはそういった枠から外れたところで楽しめるので全く別の存在である。
そしてその汎用キャラクター育成が楽しいのがヤリ込みゲーの良いところなのでは無いだろうか。

■ 可処分時間とゲーム
しかし、人間にとって可処分時間は有限である。こればっかりは生み出すことができないから場合によっては時間をお金で買うこともあり、見方によってはお金よりも貴重で尊いものであると言えるだろう。
何かというと、そんな何百時間もコンソールゲームに費やすというのは無駄なことなんじゃないかというお話である。
ネットワークで誰かと繋がっている訳でなく、唯々自分の中の何かを満たすためだけに黙々とデジタルデータでしかない数値を上げていくだけの作業をこなしているだけなのだから。

社会人というか会社勤め人になったら時間が取れないから RPG とか SRPG の様にかけた時間が全てのゲームなんてできないんだよ!そういうのは時間のある学生がやるものだ!
そう考えているときがあった。いや、実際私もそういう意見だけじゃなくて、実際に時間が取れなくてRPGだけでなくノベルゲーに触れる時間もほとんど取れなくなっていったと思う。ゲームはプレイするけれども、アクションやレースものを1~2時間遊ぶだけで満足するといったゲームライフを送っていた。
「可処分時間が無いのでゲームをやらない」それは本当の様で案外そうでもないのだよね。

斯様に「社会人は時間が無い」と思っていた私も、ふと気がついてみるとプレイ時間100時間超えするようなプレイスタイルをいくつかやってきている。
ディスガイア3(380h)、ディスガイア2ポータブル(120h)、ととモノ2G(110h)、ととモノ3(100h)、ディスガイア4(150h)。ディスガイア4はまだ遊べるけれども、なんか途中で止まっちゃっているな。
ずっとゲームばっかりしているわけでもなくて、なんか自分の環境とゲームタイトルがマッチしたときに突然遊び始める。でまあ、たいていキリ無く遊べるタイトルなのだけれども、バランスやダンジョンの作りが荒くなってくると飽きてきて離れるとかそんな感じ。
100時間超えというのはかなり本気をだして 1ヶ月以上そのタイトルを遊ぶ感じで無いと達成できない数字じゃないかと思う。300時間というのは、本当にそれしかしていないような期間が無いと達成できない数字だし、無理すると日常の生活や仕事に影響が出てしまうぎりぎりなところじゃないだろうか。

そんな感じのプレイ時間をいくつか経て考えた事は、
「大人になったからゲームをやる時間が無くなった、のではなくて大人になってゲームに時間を割かなくなっただけだったのだなあ」ということ。
本当にやりたいゲームとか、やってて楽しいゲームというのはやっぱりあって、それに巡り会えたら「遊ぶ時間を作り出す」ものなんだと思う。
ではどのような時に何を求めてコンソールゲームに時間を費やすのかというのが考えを巡らせていたお題となる。

■ ココロの安寧としてのゲーム
自身の経験からで若干気恥ずかしいのだが、最初にドはまりしてヤリ込みゲーに本格的に時間を費やすようになったのは疲れて心が凹んでいた時の事であった。まあ、病気になるほどの程度ではないのだが忙殺されるような仕事が続いた後とかでじわじわ疲れが溜まったりしていたような時。
そんなちょっと疲れ気味の時に黙々と作業をこなして進めていくヤリ込みゲーが非常に心地よかったのである。

『マイクロサクセス』という言葉がある。
人間は報われない作業をこなすという事が苦手である。どこかで作業が完結し達成感を得、結果を評価される事が必要である。そう定義したとき、なかなか完徹できない様な大きな目標しかたっていない状態というのは不安を伴うし失敗したときの落胆も大きくなる。いつまでも成功しない状態が続いていると「どうせまた駄目なんだろう」と定常的に無気力状態に堕ちていくという。
そうならない様に状態を細かいトライ&サクセスに分割していき、短期で小さな成功と達成感を得られる様に視野変更を行うことを『マイクロサクセス』というらしい。小さな単位で失敗成功を繰り返しつつ大きな目標に向かっていくということで言えば、アジャイルプロセスもそんなところだろうか。
疲れている時というのは往々にして、このマイクロサクセスを得にくい状態にある。

そんな時にゲームが役に立つ。
アクション系はどんなにがんばっても上手い下手で乗り越えられない壁があるけれども、RPGやSRPGはある程度時間をかければ「レベルを上げて物理で殴れ」が通用するのである程度の作業に落とし込む事が可能である。
そして、与えられたストーリーではなくて、キャラ育成とか効率的なレベル上げだとかいった自分なりの目標を持ってその達成に向かうのだ。
これならば、努力が達成されるスパンが 1時間から数日程度に落ち込むし、毎回小さな目的をもって作業をするので即座に適えられて非常に心地よい。

なので、マイクロサクセスを求めてのゲームプレイは非常に心地よいし精神的にもよろしい。
適度な繰り返しと達成という単位がどれくらいがフィットするかは人によるところなので程度は難しいが、その人にとって最適なモノがきっとあることと思う。それが私にとっては「パラメータの数値を上げてキャラクターを成長させる」という行為だったのだ。

ゲームのプレイであっても本当に作業に陥ってしまったらそれはそれでストレスにしかなり得ないだろう、重要なのは適度な目的と達成を見いだす事ができるという点なのではないだろうか。
なのでヤリ込みゲーの類いはパズルゲームなのだと思っている。
ただ単に死んだ目で経験値を稼いでいれば良い、というのではなくて「如何様にしたら効率的に稼ぐことができるのか、理想的なキャラクターにするためにどういう手順を踏めば良いのか」というのを考えて見つけ出すパズルゲームなのである。
そのパズルゲームのルールとして提供されているのが、パラメータと上昇具合の定義なのであろう。

簡単にまとめると「作業ゲーは作業ゲーで楽しいしやっていて落ち着くよね」という事である。
面白い作業ゲーを見つける、作業ゲーに面白さを見いだすというのは応用の利くスキルなんじゃないかな。
みんなが思っている以上に単純作業ってやりたがっているものかと。

■ 夢中になるとはどういうことか
直近の話として、実際にムゲンソウルズをプレイしていて思ったのはアウトプットが極端に減るなあという事。
あたりまえの事だけれども、ゲームばかりしているので可処分時間が取られ他のことが極端に減る。具体的には Twitter 上のつぶやきの数が少なくなった。
冷静に見てみるとこれは興味深いことの様な気がする。

ネットゲーやソーシャルゲーといった繋がるためにするゲームの類いでは、向こうにいる人に依存するのでそんなことにはならないのだけれども、旧来のコンシューマゲームは夢中になると外との繋がりを断つことになる。
そもそもで夢中になる、夢中になれるというのは外界や世間との繋がりを断つことなのではないだろうか。
自分が求めるもの、自分が成し遂げたいことを本当に突き詰めるとき、一時でも外界を遮断し自分の世界に集中する必要がある。
そう考えると「夢中になる」という行為は案外難しいのではないだろうか。

また逆のアプローチとして「夢中になる」ことで、意図して外界との接続を遮断するという意味があるのかもしれない。
人間は他の人、社会との関わりを続けずして生きていく事ができない。どんなに機械が進歩しても仕事というものが無くなったり減ったりしないのは、我々が作業をしてお金をもらっているからではなく人を満足させることで対価を得ているからである。なのでいつまでたってもそれが減ることも終わることも無い。
意識せずに他との繋がりを継続していける人であれば問題はないだろうが、そうで無い人はそればかりの状況で疲れてしまうかもしれない。たまには意図的に外界を遮断し離れた状態を作り出して回復を図るというのは理にかなった行動なのかもしれない。

そういった「夢中になる」状況として繋がらないゲーム、旧来のコンソールゲームというのは重要な役割を持ている気がする。

しかし、外界と遮断されてるということは他の人による承認も期待できないということである。
なのでその中でマイクロサクセスを追い求めるには、自身で成功を承認する必要がある。
そういった意味では、pixiv だのニコニコ動画だのといった投稿型コミュニティサイトというのは存外バランスが良い。自分の部屋に籠もって「夢中に」なって作品を作成し、成果として完成したときに作品公開しみんなに見てもらうことができる。そういった “in” である創作のターンと “out” である公開、承認のターンが明確で交互に訪れるというところが良い。
これがどちらか片方しか存在しないとき、精神的な疲弊が発生し易くなるんじゃないだろうか。

なので、ゲームを楽しむという行為の反対側に必ず「社会生活」が存在している必要があるのだろうと思う。
普段人と繋がっているので、それから切り離されてゲームを楽しむという行為がときたま心地よいのだ。

■ おわりに
これまで述べてきたのはコンソール型ゲームについてだったが、「マイクロサクセス」や「外界を断っての集中」というのは趣味の工作や創作活動においても広範囲で適用できる事だと考えている。
そういったクリエイティブワークに対するマインドや継続、成功のヒントとしてゲームのプレイスタイルというのが投影できたら理解しやすいのでは無いだろうか。
また、それをひっくり返して旧来のコンソールゲームも馬鹿にできないモノですよ、とだけ書いて終わらせておく。




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