Archive for 1月, 2011

痛キーボードは日常


レミリアお嬢様のキーボードを入手したぞ。
って、これは同人ルートでのプリントグッズのひとつ。合同会社「夢咲黒」がとらのあなに委託していたのを見つけて購入したモノ。
絵柄がレミリアお嬢様なのは趣味。(他にどんな理由があろうか)


私がシール貼りの痛キーボードを作成してニコニコ動画に投稿したのが二年半前。
これが初めてというわけではないけれども当時は結構先んじていたと思う。


その後アイマスキーボードの人が内外で話題になり『痛キーボード』というジャンルが爆誕し、色々な形でフォロアーが現れることになる。

でも大抵はプレゼントか限定品かなんかできちんと商品にして売っているのはまだほとんど数がないのよね。
そんななか、とらのあな委託ではあるものの普通に買える痛キーボードを見つけて(絵も好みで)嬉しくなってつい買っちゃったんだ。
ちなみにとらのあなは通販ポイントを貯めるとグッズと交換してくれるんだが、その交換グッズにもプリントキーボードがあったりする。これも貰えるくらいポイントたまっているから予約しようかな。へっへっへ。

さて、肝心のキーボードの方は Fujitsu SIEMENS のメンブレンだけど結構使いやすい。まあ、単に白いキーボードを引っ張ってきてそれに静電ジェット型プリンターで印刷したってだけなんだろうけれどもね。
あっ、このキーボードよく見たら英語配列だ。(@が2のシフトになっている配列)
まあ、昔は英語配列ばっか使っていたから私は別に困らないけど。


印刷を拡大するとこんな。昔の安い三色カラープリンターな雰囲気。インクは案外粘度があるらしくドームになってくっついている。
上から吹き付けるものだから、キーの間にも色が落ちているのがおもしろい。
なるほどねー。こういうのが印刷できるプリンター欲しいなあ。

いろんな絵柄のプリントキーボードが入手できる日もそう遠くは無さそうだね。


By rerofumi in PC,グッズ,同人   .::. (Add your comment) ���Υ���ȥ꡼��ޤ�ϤƤʥ֥å��ޡ���

きゃくせん!

「海鮮(買い専)」という言葉がある。
確か 2chの同人板あたりで使われていた言葉で、コミケ等のイベントで本を買うだけの人を指す。要するにサークル参加をしない、クリエイターワークをしないサイドのお客様の事だ。この言葉はどちらかというと「また海鮮の野郎がよー」といった調子で侮蔑的な意味合いで使われ始めた様な記憶がある。
同人誌即売会というのは参加者同士が直接コミュニケーションする事ができる素敵な空間であって、上手い下手問わず楽しんでいきましょう。といった理想を持っていると、この買い専的な行動をとる人ってのは少々利己的に写ってしまいがちなのだな。
その買い専という言葉も使われてしばらくたつと今度はその立場の人が使い始めるようになる。
自分の事を買い専と呼び、主に「自分は絵も文も書けないのでもっぱら読ませて貰う方っす」と自分の技量のなさを卑下するような使い方をする。このように卑下するための言葉になったところで、当初の侮蔑の意味はほとんど無くなってきたと思う。

初音ミクがブレイクし、ボカロ界というものが形成され始めたときに今度は「聞き専」という言葉が誕生した。
「聞き専」の登場は「買い専」より存分に後なため侮蔑的な意味は最初から持っておらず、「自分は作曲も打ち込みもできないから、もっぱら視聴専門で応援する側っす」と卑下の所から始まっている様に見える。

私は侮蔑の意味を持っていた頃の「買い専」という言葉を強く覚えているので、「買い専」「聞き専」という言葉にどうもしっくりこないものを以前から感じていた。
自分としてはクリエイター側にいたいという願望を持っているから、受け手に徹します宣言であるそれらの言葉を嫌っているのかと思っていたけれども、それもどうも違うらしい。
この違和感はなんだろうとぼんやり考えていたら、ひとつ気がつくことがあった。なんで「買い専」「聞き専」にはうっすらと卑下の意が含まれているのだろうといった点である。「自分は作れないから消費する側に回ります、すいません」ってなんでここに「すいません」がくっつくのだろうか。
もっとわかり易く言うと、既存のメディアに置いては「買い専」「聞き専」にあたる言葉はないのである。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、CD、その他諸々においては単なる消費者、視聴者であって、受け手に回ることが当然なためそのような区別をする必要はなかったのであろう。
つまり、同人界、ボカロ界といった「アマチュアクリエーション」がメインでありつつ市場を形成している場でのみ生じ得る言葉なのではないかということだ。

そう考えると興味深い。
表現するのが当たり前、制作するのが当たり前という世界があって、享受する側が幾分申し訳なさそうにしているという構図。

まあ、最近は卑下の意味も大分薄まってきている様に見える。
それというのも、結局「買い専」「聞き専」という「お客様」がいないと「発信者」を『評価』してくれる人がいないという事になりがちだからである。お客様がつくことで市場が形成され、発信者も潤う。
なのでお客様は大切だよ、お客様あっての盛り上がりだよ。と発信者側も理解しお互いの関係を大事にしようとしている。

しかしてそれは正しい方向性なのだろうか。
結局の所、従来の市場原理を導入してそっちに誘導しようとしているようにも見えなくもない。
作り手と受け手に分かれないと市場も広がらないし、人気も出ない、なにより儲からないよ! うん、まあ、そうなんだけれどもね。そのシェアをとって儲けに繋げようという活動自体が従来のモデルに縛られているんじゃないかという様に考えるのは行き過ぎだろうか。
そう言ったように消費者が大きな存在になると、発信者の人気というのものがくっきり現れることになる。そういったヒエラルキーを無くしてみんなで広くシェアしていきましょう、というのが目標だとしたら明らかに反した世界に変貌してしまうだろう。

だからといって「みんなもクリエイター側にまわるといいよ!」とも言い辛いものである。

それでも、「作る方があたりまえ」的な空気は特殊かつ、なかなか得難いものだと思うし、それこそがこれからを作るモデルじゃないかと思うので大切にしていって欲しいところではある。



ねるねるねるねが再生数ミリオン動画に

拙作の動画で最もご好評をいただいている「ねるねるねるねをよく練ってみたい」の再生数が Jan.11.2011 の am 3:12 頃に再生数百万回いわゆるミリオンを突破した。ありがとうございます。
ニコニコ動画史上では 610番目のミリオン動画で、ニコニコ技術部タグでは 5番目のミリオン動画な様子。


記念写真。パチリ。

投稿してからかなーりコンスタントに再生数が伸びていく不思議な動画で、投稿から 2年たった今でも 500-1000再生が毎日伸びていくという良くわからない人気を持っている。
ミリオンという一つの区切りにたどり着けたのも、誰あろう観てくれた人たちのおかげなのである。感謝。



2011年はこんな萌え、休止のお知らせ

当ブログで 2004年から毎年お正月頃に書き殴っていた放談企画「今年はこんな萌え?」だが、昨年までとして今年以降は休載とさせてもらうことにした。
まず第一に 2010年は『萌え系』に代表される二次元美少女コンテンツの世界に構造的な変革がなにも訪れなかったというのがある。個々で見ていけば「天使ちゃんマジ天使」とか「イカちゃん可愛い」とか話題は尽きないのだが、それを構築する構造については特筆すべき変化がなく旧年の延長でしかなかったと見ている。
また、アマチュアクリエーションの世界においては、これまで目標としていたプロプライエタリの世界にひたすら肉薄し追い抜こうとすらしている。そうなると今後は目標を失いどこを目指すべきか方向性を失う。それぞれに発展すべきベクトルを見つけ伸ばしていくターンに入りつつある。そのような拡散パターンにおいては様々なチャレンジと小さな失敗を沢山繰り広げる事になるだろう。一見停滞に見えるかもしれないが、そのばらばらなチャレンジと失敗こそが今後を見つけるための施策となるはずだ。

そして、これが一番大きな理由であるのだが、『萌え』という言葉は既に古くさくなってしまった。
『萌え系』というのは二次元美少女コンテンツすべてを指す言葉ではないと考えている。二次元美少女コンテンツは2000年からの10年いわゆる00年代において大きく躍進し、その先端は『萌え系』という単語をいただいた。
それも十分に成熟していき世間的には十分に浸透したし、良質なタイトルは市民権を得るまでになってきている。そういったコンテンツなんでもかんでもを『萌え』と賞するのはどうかというレベルになってきたと考えている。むしろ今『萌え』という単語を使っているのは本質をよく知らない者か、あえて侮蔑したい者かなのではないだろうか。

00年代はあきらかに『萌え系』の時代であったとは思う。『萌え系』とは何であったかというと「キャラクターのみが存在し得て、それ単体で賞賛されている状況」であったと認識している。
かわいい絵が単体であり、それになんにもバックボーンが付随していなくても『キャラクター』が成立し、絵からコンテンツが派生していくことができた時代があったのだ。さながらキャラクターバブルといった様相。キャラクターがあれば、商品はなんでも良いのだ。これほど楽なこともあるまい。
そんなバブルな状況も 00年後半で徐々に変化していく。
単にデキの良いキャラクターがいても踊ることが無くなっていく。裏にあるしっかりとした本質が問われ、それにキャラクターが付随していくように変化している。
例えば話題となった羽後町のあきたこまちパッケージ。あれはおいしいお米が本体でありキャラクターが受けていたというわけではない。あの西又先生のキャラクターだけが一人歩きし、ゲーム化したりCDデビューすることを皆が望んでいるかというとそうではない。だが、パステルいんくなどは参考書から引っぺがし英単語学習というアイデンティティを引っぺがしても存在しえた。そこに差がある。

商品展開とキャラクターバックボーンの狭間は「すのこタン」あたりなのではなかろうか。アルミ放熱すのこという商品を体現するキャラクターで、様々なグッズ展開をしてはいるがあのアルミ放熱すのこというアイデンティティを引っぺがしたら存在しえなくなってしまう。そして放熱すのこという商品が良いから今に続いている。
同じ事は初音ミクにも言える。キャラがうけて様々な展開をしているが、ミクから歌を引っぺがすことはできない。むしろ歌とセットでないと存在できないものだという世界をみんなで作っている。そしてなによりその歌声が本質であり続ける。
そういった 2007年あたりからの空気を経て、現在はバックボーンの重視がいっそう強まっている。
ゲームは売れ続けているのに関連グッズがさっぱり売れないなんてのは 2000年前後では考えられない状況なのではないだろうか。

10年代はキャラクターが商品になるのではなく、商品にキャラクターが付いていく時代である。
00年代はキャラクターが『絶対神』的崇拝対象でその派生物はなんでもありがたかった。これからは素の状態でも購入したくなる良質な商品にキャラクターが付いていきそれぞれが価値をもつ、いわば『八百万の萌え』の時代になっていくのだ。

すべてのキャラクターがありがたい。そんな時代に予測など必要だろうか。




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