Archive for the 'つれづれに' Category

ターゲットの共振

お気に入りのサイトがある。
いや、そりゃあるだろう。WEBを巡っていて、これはと思うサイトはブックマークするし巡回もする。そして何度か巡回しているうちに、そこの更新が楽しみになってしょっちゅう訪れるようになる。そういうもんだ。
ではどういったサイトがお気に入りなのか。そう考えてみると以外と奥深い気がする。

一番なのは「自分にとって有益な情報」がある事なんだが、「自分にとってよくわからないけど凄い」というのも尊敬の念とともに悪い気がしない。逆はわかりやすい、「自分にとって無益」もしくは「不利益」な場合である。
そう考えると「情報」にはレイヤーがあると断言しても良いだろう。
差別的なものではなく、高ければ高いほど良いと言った物でもない。おそらく自分のレイヤーにあった情報ほど「心地よい」ものなのだろう。高過ぎてもいけないし、低過ぎてもいけない。
だが、高いレベルであれば不快ではない、低いレベルであれば不快となる。それらは相対的な問題であって、個人差による。
ここでいっているレイヤーというのは思考的、視野角的なものであるが、そういったものは総じて文体として現れる物でもある。

そうした書き手のレイヤーというものがあるとすると、読み手としても「同じレイヤーの人」を見つけられるかどうかがポイントになってくる。
で、これがなかなか難しいのだな。
逆に、自分の趣味や思考と同じ様なレイヤーのサイトを見つけた時は物凄く嬉しい。
例え意見とかが正反対でも良いのだ、同じレイヤーでありさえすれば「そういう見方もあるのか」と納得できる文章で書いてあるものだから。

そういった同レイヤーの情報を的確に集めるにはどうするか。
一番わかりやすいのは、同じレイヤーで読んでいて心地よいサイトを見つけることだ。
だが、もう一つ手段があると考えている。それは「自分から情報を発信する」ことだ。
自分でサイトを作り情報を発信する。苦労も多いが、その見返りも結構ある。一番大きいのは、情報を発信し続けるために自分自身のアンテナがその情報関連に対して鋭敏になる。そして、情報を発信し続けることによって、同レイヤの情報が集まってくるのである。
だから「情報が欲しい時は進んで発信しろ」というのが持論の一つとなっている。

サイトを作るのは「情報を発信したい」からだが、なぜ発信したいのかというと、同じ情報に対する「共振」を得たいからに他ならないのである。そして、同じ周波数でないと共振は発生しない。

それは情報を発信し続ければ、同じレイヤの人が惹かれてやってくるから、という理由なのだが。もし情報を発信し続けても、ターゲット(お客様)が意図した層と違っていた場合はどうしたら良いんだろうねえ。



e-愚痴

「最近の○○はつまらなくなった」というのと
「俺は昔の○○の方が好きで最近のは受け入れられない」というのには大きな違いとずれがあると思う。

例え自分にとって気に入らないものであっても、多数の庶民が求め入手しているものが今売れている(受け入れられている)ものであるという事実はそこに存在している。
ものを作ったり情報を発信したりする立場にあってはそういった個人的感情と一般論的論評を明確に区別すべきではないか、というのがかねてからの持論だ。



HTMLメールは誰のため?

ニュースサイト(特にZDNETあたりの海外系)を読んでいるとたまに「HTMLメールでビジネスチャンス」とか「HTMLメールの普及率上昇」とかいったコラムやアーティクルを目にすることがある。「韓国でのHTMLメール普及率はほぼ100%だが日本では受け入れられていない」なんて直接的な記事もある。
どうやら HTMLメールに対する抵抗感というのが日本においては高いらしい。

「HTMLメールはすばらしい」的な推進派の意見もあながち間違ってはいないのだが、そういう方々は携帯電話やPDAといったモバイル端末でメールチェックをするという風習を持ち合わせていないのだろうか。
そういった小さな端末で見やすいメールというのは HTMLメールの事ではない事ぐらいすぐにわかるようなものだけれども。

普段届くスパムメールを見ても、海外のものは圧倒的に HTMLメールになっているが、国内はオーソドックスなテキストメールがほとんどだ。感心してもしょうがないのだけども、なるほどねとか思ってみる。



ハンバーグ行脚

GENESIS なゲームのヒロインではないけれども、ハンバーグが好きである。
ふと気が付くと食事がハンバーグ、カレー、ラーメンの 3強ローテーションになっていたりして自分でもお子ちゃまみたいだなあと思うことしきり。しかしま、日本の三大国民食だし(注:違います)。

昨日はみんなで秋葉原へと繰り出したので割りといつものように「ふらんす亭」で夕食を食べた。ステーキとの盛り合わせではあったが、当然の様にハンバーグを注文して美味しく食べた次第。
しかし、なんかそのハンバーグがあまりにも美味しく感じたために「明日もハンバーグが食べたい」という気運が高まり、その欲求に従う事に。

今時だとチェーン店展開しているような店舗は大体WEBサイトをもっているので、検索エンジン使って色々と物色。さて、どこにハンバーグを食いに行こうか。

ベスト・マイ・フェバリットは「ステーキ宮」のハンバーグであり、大学生の時は「ステーキ宮」のランチが主食であるがのごとく頻食していた次第。しかし、宮グループは東京/神奈川に店舗がないんだよね。全くないわけではないんだけどステーキ屋じゃないし。
しょうがないので別なステーキ屋を探すとして、次に思い浮かんだのが「Volks」。
サラダバーとスープバーを堪能しまくれるところが売り。これは神奈川にもいくつか店舗がある。うむ、鶴見なら乗り継ぎはあるけど電車で近い、WEB上で地図も確認。
いやまてよ、ハンバーグといったらやっぱり「びっくりドンキー」を忘れては駄目なんじゃないか? そういや関東に出てきて「びっくりドンキー」の店舗は見掛けても入ったことは無かったなあ。というわけで近場を検索。お、ありますよ、これまた鶴見。というか「Volks」とほとんど同じ場所じゃないですか。

鶴見といっても国道1号線沿いなので JR の駅からはちと離れていたり。
よするに国道沿いなので駐車場付きのファミリーレストランがたくさんあるってことですな。
JR の駅から離れているとはいっても地図上で見ると大した距離でもなさそうなので、駅からとことこ歩いていくことに。……失敗した気がする。行程は複雑じゃないんだけど、山を一個越えるような形になる。つまりは登り坂が続く。
ひたすらに坂を登りつづけてようやく国道へとたどり着く。チクショウ苦労した分うまいものを食ってやる。
国道沿いに歩き始めてほどなくレストラン群が現れる。
「ガスト」「びっくりドンキー」「Volks」「マクドナルド」「サーティワン」、それに「ブロンズパロット」鶴見店ってここだったのか。ちょっと離れたところに「びっくり寿司」もある。なにもこんなに近接しなくてもとか思ってしまうが、近接しているからこそ「どこにしようかな」と悩むのかも知れない。

今日のお目当ては「びっくりドンキー」。
迷わず入店して 300g のハンバーグを注文、美味しくいただく。
なんか 6日までハロウィンフェアとかでオレンジ色のかぼちゃオバケをデザインしたエプロン(というよりスモック)を着たウェイトレスがうろうろしていたのが印象深い。

ここ数日は健康に気を使って歩数計を持ち歩いていたりする。それゆえ、ごはんを食べに行くだけでなく、そのためにできるだけ歩こうというのも目的だったり。
帰りは鶴見駅まで戻るんじゃなくて別の駅目指してとぼとぼと歩くことにする。食べたいものを好きなだけ食べたので、その分体を使わないとねという流れ。
んが、行きと違って坂がほとんど無かったので JR の駅にあっさり着いてしまう。何か面白くないので追加でもう二駅分歩いて帰ることにする。
そのおかげで今日一日の歩数は 16000歩を越えた。ハンバーグもお腹いっぱい食べたし、充足された気分。

関連リンク
http://www.france-tei.com/
http://www.miya.com/
http://www.volks-steak.co.jp/
http://www.bikkuri-donkey.com/
http://www.bronze-parrot.com/
http://www.skylark.co.jp/



メディアの遍歴

ちょっと前に先日帰宅途中の電車内で前に立っていたオヤジが読んでいた新聞が不意に目にとまった。端っこにあるコラムの一片なのだが、その論題が「若者の活字離れと携帯電話」ということであった。
最近の若者は携帯ばっかで活字を読みやがらねえ、というのが前半部で後半は自分が戦時中苦労してまで活字が読みたかったという体験談が書いてある。
ようするに「俺を見習えさもなくば馬鹿になる」と若者を戒めているわけだ。
少なくとも私はそう理解したし、そのような解釈が出来る文であった。そして毎度毎度こういう論調を見るたびに気分を害すること甚だしい。

このコラムの場合「活字」ってなによ?というところからツッコミが始まる。
もちろんそれが「書籍」「文献」の類であることは想像に難くはないのだが、著者が指しているであろう対象物に比べ実際に「活字」が定義されている範囲は広い。
例えば漫画の吹き出しないにあるネームも十分に「活字」ではないか。だからといって漫画を沢山読めばそれなりな量の活字を読んだとその著者が見なしてくれるかというとそういうわけでもあるまい。
それに携帯をやり玉に挙げているということは媒体が「紙」であり「本」もしくは「新聞」という形態になっていなけらばならないのだと思う。私たちの様なインターネットジャンキーは PC や携帯 PDA といったデジタル装置のディスプレイに画かれる文章をいったいどれくらいの量読んでいるのだろうか。毎日ニュースサイトや日記をぐるぐると閲覧して回っているし、コラムを読んだり掲示板を見たりメールを読んだり、はてはオンラインマニュアルを読みふけったりする。
そういったネットワーク経由で読む文章というのは一体どれくらいのものになるであろうか。ひょっとしたらネットワークを利用していない人に比べると物凄い差があるのではないか。そういった大量の文章や情報を取り入れる事を否定するつもりなのだろうか。

要するにどういった書籍を読めと言っているのかだと思うし、そこには個人的な価値観がからんでいると思う。
例えば、私は月当たり20冊以上の本を買っているんじゃないかと思うけれどもその大半が漫画だ、あとはゲームやアニメの情報誌とコンピュータ系の雑誌と専門書籍。最近はコンピュータ系の本も購読料が減った。書籍では情報が古すぎるので、ネットワーク上にある情報を優先して読むからだ。書籍は通り一遍のナビゲータとして目を通し、細部や最新の情報はネットワークから得ることが多くなった。
この中に「もっと本を読め」と声にしている様な人達が読んで欲しいと思っているんじゃないかなぁと推測できる「小説」「随筆」の類はほとんど含まれない。
せいぜいで年に数冊ライトノベルを買う程度だ。
しかし、これら情報誌、雑誌、専門書籍といった物を読むだけで大量の活字を目にしている、ネットワークを含めたらもっとだ。それにも関わらず「活字を読め」と主張する人の合格圏内には入っていないに違いない。

先日、俺ニュース経由で読売新聞の「『本離れ』の実情を探る」という調査報告を知る。
http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200210/10data.html
調査項目も細かく、報告内容も納得が行く。
少なくとも「本が売れていない→携帯のせいだ」という短絡思考に対しては確実なカウンターとなる資料であろう。

こんな事を書くと怒られるかもしれないが。
私は文学とも言われるいわゆる小説の類は「娯楽」だと思っている。知識欲を満たす行為ではなく「娯楽」なのだ。だったら「娯楽」は他のメディアでも得られるわけだし、今ではそのメディアが無数に存在している。
昔は書籍と舞台くらいしかなかったのかもしれないが、映画、ラジオ、テレビ、レコード(CD)、ビデオ、ゲーム、WEB 等、様々なものが発生し発展している。それら存在する全てのメディアに対し庶民がどれだけお金を払い続けられるであろうか。分散したらしただけ個々の配分は少なくなって当然なのである。
メディアは常に生まれ変化している、しかしお客様がお金を払ってくれるのは面白いコンテンツが存在する場所であり、一つのメディアに固執しているわけではない。メディア単位で見た場合、固定メディアの売り上げが落ちていくのは当然の事なのだ、それだけ世の中は動いているのだから。
それだけ散ってしまった多種多様なメディアと庶民の財布の行方を呼び戻す方法は簡単である。面白いコンテンツを作成すればよい。
売れなくなったと嘆く事は意味がない、どうやったら売れるものになるのかを論じるべきだ。

そして、それはあらゆるメディアに対して言える事でもある。



ネットとコンテンツと暴発力

ぴょんきー松尾が「任意読本〜任意ラヂヲ完全解説集」を持ってくる。
再販されたときに買っておいて〜、とたのんで査収しておいて貰ったものだ。それが今頃届いた次第。(あ、本代渡すの忘れてた>ぴょんきー)

あー、なんか改めてみるとなんか懐かしい感じやね。2002年のインターネット(の片隅)で話題だったコンテンツの一つであると断言できるし。
任意ラジオの歴史として書いてある第1回の公開後 2日目に YU-SHOW Bomb(ビュー数が多い人気サイトにリンクを張られてとてつもないアクセスがある様)を食らってサーバーが落ちるってのが懐かしいやね。あれで一気に元ネタの個人ニュースサイトに広まって、後は見てのとおり。実は YU-SHOW さんにタレこんだのは私だったりするので懐かしいエピソードになっているわけだが。
まあ、ネタとして使われているので遅かれ早かれ伝わっていたであろうし、ふぁん氏もそれを狙っての事だったと思われるが。
でも当初はアンテナ系日記サイトを中心として話題になっていただけだったので、それがオタク系個人ニュースサイト(もしくはそのコミュニティにいる日記)まで伝播するかどうかが成否の要であったと思っている。

ここ最近のネットコンテンツを見ていると、それがヒットするかどうかのカギは個人の日記および個人ニュースサイトにかかっていると言っても良い。
日記もしくはニュースリンク(便宜のため以下まとめてウェブログとする)に取り上げられるということはその記述者にとって興味深い内容であるということで、ここで小さく視聴者を掴んでいる。コンテンツを見つけてそれを気に入るか入らないかというのは個人的嗜好にかかってくるので全員がそれを記すことは無いと思われる。だけれども、ウェブログに置いてはその書かれた物を読む人はおおよそ同じ嗜好を持つもの同士である事が多い。同じ趣味を持つ物のウェブログは自分にとっても面白いのでそれを読みに行く、そして自分にとって興味深いトピックを見つけたのでそれを自分のウェブログに記す、それをまた誰かが見るといったフローで情報がバケツリレーで伝わっていく。P2P 型の情報伝播トポロジーである。
ここで流れていくのは情報であるところが Napster 等のファイル共有システムとは違うし、特定のアプリケーションもサーバーも必要としない。
ポイントとなるのが、各ロガー(記述人)の趣味嗜好でそれら情報がフィルタリングされるところである。コンテンツ自体がさして面白くも無い場合、それを紹介しようという人があまりおらず伝達はされずにノードは切断される。逆に誰が見ても面白い物であった場合はまんべんなく情報が行き渡る。
自分の所のページが個人ニュースサイトに掲載された場合が最もわかりやすいのだが、その情報が伝わるノードを追っかけていくとかなり面白い。本当に 1点の紹介から始まってそれが網の目状に広がっていくのである。まあ、そんな人気ページを作れたことはほとんど無いので滅多にお目にかかれないのだが。

そういった様にウェブログで取り上げられてソレが伝播するといった流れに乗ることさえできれば認知度が爆発的に上がるし、認知度が好意的に上がればそれは人気があるということになる。あとは話題が話題を呼びそれなりに話が膨らんでいく。
だが、逆に自分からウェブログに飛び込み利用することで爆発的な波及力を持つという作戦に出る者が現れた。それが偽春菜(後の任意、何か、伺か)であり、任意ラジオであった。
偽春菜(以後「何か」)がウェブログの更新ヘッドライン機能を持ったのは突然のことであり、ヘッドラインを取られる各サイトには何も連絡はなかったという。各サイトは自分の所へのアクセスログで突然の来訪者を知り、その正体が「何か」であることをログを辿ることで知ったと聞く。そしてその正体がデスクトップアプリケーションである事に興味を示し自サイトで紹介し、それが広まっていった。任意ラジオの場合はコンテンツ内で各ウェブログや管理者の名前を出し劇中のネタとしている。
どちらも突然のことであり、相手先のサイトにきつく怒られても当然ではないかとも思われる様な行為だ。しかし、コンテンツ自体の楽しさの方が勝ることにより各ウェブログ管理者はそれを容認してしまった。(ひょっとしたら一部は怒ったのかもしれないが)そのとまどいと受け入れの微妙なバランスを成し得た理由がオタクとしての共感と理解性だったのだろう。
おそらく、この一連の流れが無かった場合どちらも現在ほどの広まりと支持を受けることはなかったであろうと思われる。
まあ、任意ラジオは「何か」が行ってきたことを意図して再現しようとしていたのだが。

それでは今後もこのように各ウェブログを巻き込む形で宣伝流布を行っていけば人気コンテンツがガンガン作れるのだろうか。ある意味では正しく、ある意味では間違いだろう。
ちゆ12歳が本を出したり、侍魂の健さんが鉄拳4のCMをやったり、健さんとひろゆき氏がアプリケーションソフトのパッケージに載ったりとかいうのも発展形
ではある。ゲームのレビューを人気サイトの管理人にやって貰うという試みも実際になされている。
しかし、基本的にはウェブログを書いている一人一人がコンシューマである事を忘れてはいけない。そしてそれらの人に受け入れられるか蹴られるかは各人の趣向に因るのである。

任意ラジオのスタッフ陣から出ている各種コメントを読むにプロデュースの成功とそれに対する大きな自信を持っている様に見受けられる。まあ、意図してやったことが思った通りになっているので悪くはない。
しかしなんというかやっぱりまったくのオリジナルコンテンツでなくて、既存のコンテンツを元にした 2次創作物であったからの結果じゃないかという疑念もある。まあ、これは単なる私のやっかみでしかないんだが。
全くの無名がゼロから新しいコンテンツを作成したとして、それを波に乗せるのは洒落にならないくらい大変なことである。最近だと「月姫」がそれを成し得た成功者であろうか。
そうでない場合、2次創作物的な物のほうがオタク的に受け入れの閾値はぐーんと低くなる傾向にある。だからこそ受け入れやすいし広まりやすい。
つまり、ウェブログコミュニティに対する暴力的とも言える介入も「さくら」というキャラクターが既に存在し人気もあったから受け入れられていたのだという事を付加しておきたいのである。
もちろんそれは悪いことではない。むしろそれだからこそ皆に受け入れられる、という部分を大切に確実に伸ばしたところは賛辞すべき事象である。オリジナルでも同じ事ができたかという疑念もあるが、良くそれを為し遂げたという尊念の方が幾分大きいので。

世の中良い物がうけるかといったらそうではない、よりよくプロモードできる力の方が重要である。良い物新しい物という要素はそのプロモートの手段となるだけである。
売り込み、営業、皆が望む物を適時提供、そういった能力が自分には物凄く欠如しているため、うまいことやっている人がうらやましく思える。ようするにそれだけ。



暗闇を照らすもの

LED、発光ダイオード。
私がはんだゴテを手にしてラジオキットを作る楽しさを覚えた頃、それは新しいデバイスであった。そんなに高くはなかったけど、電源をつなぐとうすらボンヤリと赤い光を放つそれは使いみちのほとんどないものでもあった。電化製品のパイロットランプはネオン管が主流だった。
そんななか「高光度LED」というものが商品化となる。暗くてボンヤリと光でしかなかった LED を実用的な「明るい」と感じる明度を持ったデバイスへと改良されたのである。その研究者は日本人で周囲は馬鹿にしていたが努力の末その高光度LEDをものにしたということでサクセスストーリーが NHK 特集で組まれていたのを覚えている。記憶がたしかだったら SHARP の人だったと思ったが。
そんなこんなで LED は実用になったわけだがそれでも青色の LED だけはどうしても作れないと言われていた。ふうんそんなものなのかーと思っていたとき愛読書である「初歩のラジオ」の片隅に「青色の LED 開発に成功」というニュースが小さく載っていたものを見つける。なぜかこの時私は異様に興奮していたのを覚えている。
だがその興奮を分かち合える人間が周囲にいなかったのでどうしようもなかったのだが。
そんなあこがれのデバイスが手にはいる様になるまでさらに数年を要する。やがて秋葉原のパーツ屋にて青色 LED が 1個 900円ほどで販売される様になり、小躍りしながらそれを買いに行った。当時の青い色 LED は本当に薄暗く昼間は点灯していることが認識できなかったぐらいだ。部屋を暗くしてぼんやりと光っている青色のそれをみて、ああ綺麗だなあと思ったのを覚えている。

話はずーーーっと飛んで。
先日 PC のケースを買った。恵安の KN1000A 前面アクリルの憎い奴だ。
http://www.keian.co.jp/new_pro/kn1000a/kn1000a.html
これの電源を入れてびっくり、パイロットランプが高光度青色 LED だった。前面のアクリルに青色がひろがって綺麗。思わずおおっと感嘆する。
しかしだ……。
明るすぎるんじゃあああああああぁぁぁぁぁーーーーー!!
寝ようと思って部屋の電灯を消しても部屋はあまり暗くならず青く煌々と照らされている。PC ケースの LED だ。
なんか明るすぎるのも問題かなあと思わざるを得ない事象。



携帯、ハイビジョン、ネットワーク家電

エレクトロニクスの展示会 CEATEC に行ってきた。
なんというか時代がようやくハイビジョンに傾倒してきたのかなという感じ。
各社勢いのある薄型大画面ハイビジョンテレビ(液晶とかプラズマとか)を大々的に展示しまくっている。
液晶やELディスプレイの展示もめちゃくちゃ多い。なんというか、携帯、PDA、デジカメだけでなくありとあらゆる機器にカラー液晶ディスプレイが付いてグラフィカルかつ多彩に情報を表示する感じだ。
しかしちょっとまて、本当になんでもかんでもディスプレイが付いてしまったとしてそれは本当に便利なのか? 部屋の中は煌々と光る液晶パネル付き機器で埋まってしまうのか?(現在も大分近い様な気もするが) そういうふうに各機器にディスプレイが付いていたら、いちいちそれらを見て回らないとならないのでかえって煩わしくはないだろうか。
丁度近い位置にいるものとしてリモコンがある。リモコンは便利で多機能だが、各機器毎にリモコンがある物だからリビングには5個も10個ものリモコンが転がることになる。なんとかそれらはまとまってくれないだろうか、というのがエンドユーザの感想であろう。
ディスプレイもいずれそのように面倒に思うようになる。
ザウルスサイズのディスプレイが 1つ転がっていてそこにあらゆる機器のインフォメーションが選択的に表示されると便利じゃないか。ビデオの予約状況や演奏中CDのトラック情報、デジカメの撮影可能枚数から留守電の状況まで、そのお手元ディスプレイに表示されればいいなあと夢想してしまう。
この考えは PDA なんかにも応用が利く。手元には軽くて適切サイズのディスプレイだけがあればよいのだ。早くて大容量の PDA(ノートかもしらんが)本体は鞄の中に入れっぱなしでも良いじゃないか。
そこにあるのは無線化と「共通化」の技術である。

今現在そこを目指しているのが「ネットワーク家電」ということになるんだろう。
消費者にとっての便利とは「多機能」ではなくて「学習無しに使える」ことでありそのためには「一度覚えたらそれで済む=どの機器も使い方は一つ」であって貰いたいものだ。



やりすぎはいけないと思うのですよ

いっつも思うのだけれども。
「アニメオタクきしょい消えろ」(←まろやかな表現に翻訳しております)
っていうのは度を過ぎると思想差別なんじゃないかなあ。

誤解されると怖いので短めに。

# もちろん他にも似たような事例はいっぱいありますよ




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