Archive for 6月, 2010

小さい方が好きだと言える時代へ

テクノロジー、特にコンピューターとネットワークによって情報を中心とした私達の生活は大きく変化してきた。
それら情報テクノロジーで克服された物理的制約というものがいくつかあるのだが、最も大きなところでは「距離」と「時間」ではないだろうか。日本国内だけでなく、世界各国のいたるところへほとんどタイムラグなく情報やデータを送付することができるようになり物理的な距離はほとんど飛び越せた。ネットワークによる分散データベース化でサーバーにデータを蓄積することができるようになり、情報をこれまでにないような時間軸で保存し任意に取り出すことができるようになった。
本が時を超えて知識を運ぶ様に、情報という形にまとめてそれを蓄積することにより「距離」や「時間」といった物理的制約を崩し、飛び越えてくる。
これまで物理的に無理だったことを可能にする、それがテクノロジーの魅力ではないか。

「距離」と「時間」を飛び越える事ができ、その有り様を大きく変えてしまった。
では、次に変わる物理量はなんであろうか。
次にというか、既に変わりつつあるもの、それは「大きさ」なのではないかと見ている。

コンピューターネットワークが庶民の手に渡るそれ以前、「距離」「時間」そして「値段」が大きな壁として立ちはだかっていた。それゆえ、日本全国津々浦々へ品や情報をとどけるためには「大きさ」という圧倒的な力が必要ではなかっただろうか。より多くの人に、多くの地方に、均等に同じ物を、できるだけ安く、早くお届けするにはどうすればよいのか?それは大量生産、大量運輸、大量販売、それによる廉価化が必要という回答だったのではないだろうか。また、そのために、大きなシェアが必要であり、大きな人手が必要であり、大きな会社である必要があり、大きな売り上げが必要だった。同じように、個々人でも大きな権力、大きな資金となにかと大きなことが良いことだという風潮になり、「大きい」という力量が絶対的な価値として見られている。もはや、信奉といっても良いだろう。
しかしながら「距離」「時間」「情報」といったものが物理的な形を伴わなくなってきたとき、それを超えるのに力が必要でも無くなってきたとき、本当に「大きい」必要はあるのだろうか。

以前の仕組みでは、大きな会社で大勢の人手を使ってより多くの人の手に渡る商品を作るといった数値が最大になるような構成をしてきた。莫大な広告を打って認知度を上げ大量の小売店に配送して沢山の人に売るといった、多くの人に買って貰う仕組みを整備し100万枚売れないと黒字にならないという音楽CDの作り方売り方しかなかったとする。
今は、クリエイターが直接CDを作って売ることができ、本当に聞きたいと思う3000人へそれを売り、それなりの収益を上げるといったことができるようになった。
そういったダイレクトかつ小口のチャンネルを作り出したのが、コンピューターネットワークであり、情報テクノロジーである。
こうなると「なぜ大きくなくてはいけなかったのか」という理由付けが揺らいできて、これで十分なんじゃね?とマイクロチャンネルに分散していくことになるだろう。分散した先はかつての10万人、100万人といったバリューではないだろうが、そういった数字ではないもっと別な物が手に入る世界となるだろう。

しかし、これまでの世界はあまりにも「数」と「大きさ」に支配されてきた。それが良い悪いじゃなくて、数の大きさでしか物事を見る事ができない人が存在することでその支配量を知ることができる。
時にあなたは「100mを10秒で走れないからダメなのだ」と叱咤されたことはあるだろうか。多くの人は100mを10秒で走れないからそのような事を目標に持ったり、夢に見たりはしていないんじゃないかと思う。トップアスリートは10秒台で走れるとして、あなたが走れないのは努力が足りないからだろうかと言うとそんなことはない。身体能力は人それぞれで、本当に秀でている人はそれを伸ばすように特訓して10秒台を目指すが、多くの人は自分がそこまで身体能力を備えていない事をわかっているからサラリーマンだったり、クリエイターだったり、商売人だったり、マネージャーだったりといった自分の丈に合い能力を活かせる職で暮らしていくことになる。
数だけで比較するというのはそういう真のトップアスリートと凡人を比較してどうだという事に近いのではないかと思う。
実際はそういった世界の頂点と競争しているわけでなく、住んでいる地域、職種、人間関係その他もろもろの要因によって自分の手の届く距離の中で生活しているのではないだろうか。
そういった適切な範囲の生活スレッドという単位が存在するように、情報単位もマイクロクラスタ化しているものである。

これまでは、生活範囲でしか個人の力が及ばなかったが情報テクノロジーによって「距離」や「時間」(場合によってはお金)はとっくにとびこせるようになってきている。つまり「大きく」なくても、あなたの持つ情報は遠くで欲している人に的確に届けられる時代になっている。
もう、伝えるためだけに大きくある必要はないのだ。

適切な量を適切な人に伝えられればよいということにみんなが気づいたとき、「大きさ」信奉は瓦解するものと思われる。
しかし、そういう世界においても「より多く」の人に伝えたい場面はあるだろうし、みんなをまとめないと国単位では立ちゆかないこともあるだろう。そういう場面は残るため、全てがマイクロクラスタ化するわけではない。
ただむやみに「大きければよいだろう」という無駄な価値観が無くなっていくのではないかということである。




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