人生に影響を与えうるほどのコンテンツに出会えているか

ascii.jp にて tron の坂村教授インタビューがあり、楽しく読ませてもらった。(前編後編)
坂村教授の言は、いつも何かを大きく変えてやろうという意志にあふれていて良い。それ故に突拍子もなさ過ぎるきらいはあるのだけれども、そこがまた良いというかなんというか。20年くらい前に初めて読んだ tron 構想の本を今読むとどんな気分だろうか。

先のインタビュー記事、前半の方に「スシ・ポリス」の話題が混ざっている。ちょうど、この後に続けて読んだので印象深かったのだが、産経で連載している「知はうごく」の一説、すしポリスの言い出しっぺという浜野教授のコンテンツ論が掲載されている
坂村教授のインタビューは痛快で良かったが、こっちはとことん駄目だと感じた。
こういう人が「日本のコンテンツ力云々」と言っている一員なのかと思うと政府戦略に対し甚大なる orz を禁じ得ない。

個人的にもっとも悲しかったのが次の一節。
アニメや漫画は感動をもたらすけれど、ゲームは、お金だけ持っていって、子供の時間奪ってますね。その人生にプラスアルファがない。
これを読んで、ああこの人はマンガもアニメもゲームも知らなくてただ周囲(の国)が良いねと言っているから良い物としているだけなのだと、私は認識した。
ゲームだけでなく、マンガやアニメについても見識を誤っていると思う。
今の20代くらいの若者に「人生に影響を与えるほど感動したゲームはなに?」と聞いたらちゃんと答えが返ってくるんじゃないかなあ。ファミコン時代やアクションゲームであっても、大きな何かを残しているはず。そうじゃなければ「おっくせんまん」があそこまで支持されては居ないだろう。
そもそもで、この人の不幸なところは「あまりの衝撃」で眠れなかったり、仕事が手につかなかったり、3日間はそのことが頭から離れなかったり、するほどの感動したゲームに出会えていない事だと思う。これらが誇張ではなく、割と本当にそういう状態になったもんだし、ゲーム好きならそういうゲームタイトルに出会ってきたものだ。
初めて「ONE〜輝く季節へ〜」を読んだときの衝撃とかは9年近く経った今でも忘れられないし。アドベンチャーゲームをマンガやアニメと同等レベルまで押し上げた「ジーザス」は記念碑的作品であった。そして、小説や映画では当然の様に盛り込まれている要素である恋愛を(一般向けとしては)初めてゲームとして確立した「ときめきメモリアル」は日本の色々な物を変えまくった。

マンガやアニメも昔は子供しか見ない物であったし、百害あって一利なし的な低級な娯楽であったはずだ。それがなぜこういう頭のお堅い人にももてはやされるようになったかというと、それは「大人も読める作品」が多くなってきたからに他ならない。
コンテンツが表現の手法だとすると、その表現の幅がとてつもなく広くなったとも言い換えられる。表現の幅が広がったことで、大人が感動できる物語や海外で高い評価を受ける物語といったものも生み出されるようになってきた。逆に言うと、子供にしかわからない作品もあれば、愚劣な作品もある、一見ギャグマンガだけれどもよくよく見ると芸術的な作品もあったりする。そういった、全てを許容しないと「マンガやアニメ」とひとくくりにできないのではないか。

同じようにゲームが「大人も読める作品」となりうる可能性は十分にあるし、その萌芽は見かけつつある。プレイヤー層がそのまま大人になっているのだから、その嗜好に合わせて市場がスライドしていくのは当然である。
そもそもで「時間の無駄」とひとくくりにしたら、「脳を鍛える〜」に対しても侮蔑の意を持つことになっている。

マンガ、アニメ、ゲームがなぜ日本では有力なコンテンツビジネスとなっているかというと、それは「過酷なまでの競争」があったからだと信じている。
その輝かしい名作の裏に横たわる死屍累々とした駄作の数々を私はいとおしく思う。そういった激しい競争と、危険を顧みない新ジャンルへのチャレンジ、そしてみんなの努力。そういった底辺を見ているからこそ、コンテンツの大切さと、その価値を知ることができるのではないだろうか。

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