化けるわよ(ハニー風味)

光希桃さんとこの「多量見は『後化け』の期待するがための行為である」という切口からの考察。「後化け」したアニメを見ていたことに対するエクスタシーは確かにあるものの、「化けた」かどうかの判断基準自体が個人相対的なので理論としては納得が難しいかなあ。
感想率調査(特に第三回)でいつも思っているのが「終了番組評価」なんですが、あれって切り捨てた(見限った)り最初から見る気がなかったと言う人が最後まで見て投票していたとして同じ様な偏差になるのでしょうかねえ。

「後化け」はさておき、多量見の心理については「なんのためにそれを行なっているのか」という前提が必要だと思います。
ただ単にアニメが好きでたくさん見たいから、と言うのは事象で、その前にある物が何かは結構色々あるんじゃないですかね。
「アニメに対する生き字引になりたいから」「将来アニメータになりたいのでその勉学のため」「この文化がどう変化していくのかを見極めたいから」「これを見ている層の思考と傾向を把握したいから」

こういうことを書くと嫌われるかもしれませんが、私がアニメや漫画を観ている理由の一つに「将来何かを創るための知識と情報の吸収、そして分析」というのがあります。(創るといっても業界人でもなんでもありませんけど)
だから私が切り捨てる場合、自分が将来作ったり作成に関わりにならなそうなジャンルからとなります。で、出来に関わらず収集しておくのが「萌え系」であると。

ここで思い出すのがオタク世代の断絶という話題。
「しーぽんと光太のキス事件」について「好きなキャラクターを取られたから」程度の解説しか出来ない前世代オタクは、既に今のオタクと大きな溝を経ているのだなあと思う。それをリアルタイムで追っかけて、各ニュースサイトや日記で盛り上がる様を間のあたりにしていれば、そんな稚拙なものではないことがわかるだろうに。アニメを観ていれば叫びの声に共感できただろうに。
でもやっぱり、その場に居ないとわからなかったというのは事実かもしれない。その感覚の共有をするためには、今ある物を一緒に消費して行かないとならないわけで。

関係ないけど「せんせいのお時間」で「おやじ×委員長」は許せる(むしろくっつけてしまいたい)のに「渡部×中山」はなんかムカツクという感覚は良い例になると思う。(そういった感想を持っているのならばですが)

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