無友力の高いWEBサービス

『「無友力(むゆうりょく)」という言葉を流行らせようと思います』

ライトノベル作家の森田季節氏が無友力なる言葉を提唱しているtweetを見かけた。
いかに友人が少ないか。通常は多ければ多いほど良いとされる友人数の逆をして、友人の少なさとそれに伴う「何か」の強さ(自立性とかそんなの)を肯定的にとらえ評価するための指針なんだそうな。なんというか、この、実にそそられるものがある単語ではないだろうか。
ぶっちゃけ「非コミュニケーション」の事であり、コミュニケーション力の低い事を自虐的かつ憂い顔もなく語っているだけなのだけれども、恋愛至上主義と同じくコミュニティー至上主義になりがちな風潮においてちょっと一石を投じる可能性はないだろうか。なんて言ってみる。
この「友達が居ない」とか「非コミュニティー体質」の事を最近のコメディ界隈では「残念」と称して、ラノベや漫画での1ジャンル(属性か?)として定着しつつある。平坂読氏の『僕は友達が少ない』なんてのはタイトルまんまだし、瀬那和章氏の『レンタル・フルムーン』も帯に「残念なキャラたち」とこき下ろしていた。『レンタル~』の方は人付き合いが下手と同時に、恋愛に対して鈍感な主人公とヒロイン(両方)というダブルミーニングではあったのだけれども。
そんな感じでコメディ方面ではすっかり「変態系」から「残念系」へシフトしたのではないかと見ている今日この頃。
こういった「つきあい下手」が「残念」と称してステートにして笑えるネタに転じているのを見て、ああこれがまた新しいlifestyleとして定着したのだなと見る。その昔、侮蔑用語だった「オタク」が自虐ネタへ転じてその後ひとつのスタイルになったのと同じである。最近だと恋愛至上主義との決別を「非モテ」と自虐しステート化していたのが記憶に新しい。
そこにはもう非難的な意味は含まれていないのだ。

その昔、ぷよぷよ以降の対戦パズルゲーム花盛りでマジカルドロップが人気だったりするくらいの頃。
対戦型パズルゲーム新規開発の命を受け悩む開発者達がいた。あーでもないこーでもないと新しいゲームシステムを考える彼らの表情は暗く、行き詰まっていることがありありと見て取れる状況。そんな状況故皆の口数もどんどん少なくなっていった。
やがて一人が投げやりにつぶやく、
「対戦なんて人とやれば何でも楽しいんだよ、クソゲーでも友達と遊べば面白いのだから」
そんな事は皆わかっている。わかっているからこそ無言でそれを聞き入れるしか無い状況であった。
それでも面白いゲームを開発しなければならないと開発現場は一層重い空気が立ちこめていく。

「対戦プレイが面白い!」こんなキャッチを掲げて売っているゲームはクズである。対戦は面白いに決まっているのだ。逆に対戦が辛いというのはある意味すごい。それはものすごくつまらないゲームだということなのだから。
ところでゲームと言うのは本来プレイヤーの力量を試すものでもある。なので、プレイさせるとそのプレイヤーの能力、腕前が何らかの形ではっきりとゲーム上に現れる。そのことは逆に対戦プレイをつまらないものにしてしまう。プレイヤー間に力量の差があると、それが勝敗という形で明確に出てしまうからだ。本来の形で言えば面白い対戦というのは、力量が拮抗したプレイヤー間で無いと行われる事がない。
まあそこまでシビアだとあんまりだというので、少々の実力差は逆転できるような要素を演出として盛り込むことになる。それが偶然必然の連鎖であったり、攻撃返しであったりするわけだ。その演出がいくらかの実力差を慣らし、どっちが勝つかわからない勝負、つまり面白い対戦プレイを生み出す。
ただこれはあくまで演出でしかない、本当の実力差を慣らすわけではない。だが、そこを見失い過剰演出をしてしまいかなりの実力差があっても逆転できる様な「演出」を皆が求め、入れる様になってしまった。それによりシーソーゲームがおこりうるのは確かだけれども、実力差が完全に隠蔽され勝敗は単なる「運」によるものに成り下がってしまう。
こうなると一見「熱い対戦プレイ」で初期インカムが上がるが、結局は運なのですぐに熱が冷めてプレイヤーは離れてしまう。
それではダメなのだ。演出過剰になって本当に均等となってはいけないのだ。
そうではなく、最後に残るのはやはり本当に「ゲームが面白い」ものになっていく。だから、開発者達は面白いゲームを考えなければいけない。例えインカムに影響しなくても、最後はやはりゲームが面白いタイトルが残るのだから。

人は人を求めている。人とうまくつきあおうとしている。
それは社会の中で生活していくうえで何よりもコミュニケーションが大事だからに他ならない。
しかして、コミュニケーションは娯楽でもある。
それを踏まえてツールやWEBサービスを眺めると「いかにコミュニケーションが楽しいか」といった事が人気の秘訣でひいては成功のカギとなっていることが見えてくる。メールにしろBlogにしろメッセンジャーにしろ、SNSにしろTwitterにしろ、いかにコミュニケーションコストを下げて容易に利用できるか、そして利用して多くの人に自分がかまってもらえるかというところが争点となってくる。
しかし、そのように面白いコミュニケーションツールというのは本当に優れたサービスだから面白いのだろうか。
コミュニケーションを実現するツールである限り「何を使っても実は楽しい」のかもしれない。だって本当に楽しいのはツールの向こうに仲間が居て人が居るというのが理由なのだから。
ここで逆を考えてみる。友人や知り合いを全く誘わないで、一人でそのサービスに飛び込んで黙々淡々と利用して本当に楽しいものだろうか。例えばメッセンジャーとかは知り合い同士でないと使えないからアウトだよね。BlogやTwitterとかは一人でも始められるけれども、そこで耳目を集めて地位を確立する(コミュニケートができるようになる)までかなりの力量と時間を要するのではないかと思う。本人の力量次第では誰の目にも触れることなくひっそり力尽きてしまうかもしれない。案外過酷な世界が待っているような気がする。
友人らを誘って、仲間内でくねくねしていると楽しいサービスというのは本質ではないんじゃないかと考えるのだ。
もしくは何らかの手段でサービス上で友達を作るととたんに楽しくなるパターンとか。MMORPGとかこの系統だね。

だから無友力が高くても使えるサービス、楽しいサービスというのが実は本物なのではないかと考えるわけだ。
全くの無名で友達が居なくて一人で始めても、アイディアと力量次第で皆の目を引き次第に知名度が上がっていく。そんな世界。
単なる個人サイト、WEBページなんかは完全にその世界なのだけれども、注目されるためのハードルが高くなりすぎてしまった。なので、もうちょっと埋もれた才能が目立ちやすくなるようなサービスが存在するとよい。
そしてそれがBlogでありYoutubeでありニコニコ動画だったんじゃないかと思うのだ。
注目のハードルを下げるのは良いのだけれども、コミュニケーションに固執するばかりでもうまくいかない。ハードルが低すぎて誰でも参加できる分、今度はコミュニティーが中心になり、仲間内とか最初から存在するコミュニティーを持ち込んで最初からクローズドサークルでくねくねするのが主流になってしまう。

本気で無友力を発揮しつつ利用できるサービスというのを考えると、実は一番有効なツールが「匿名性」であることに気がつく。匿名性の高いサービスは、知り合いが居なくても(ひょっとしたら居たとしても)関係なく疑似コミュニティを構成することができるのだ。
個人として評価される事は少なくなるけれども、発言の影響度は通常のそれを持ちつつ耳目を集めずともコミュニティーに参加することができる。
コミュニケーションコストを下げすぎて実力が隠蔽されネームバリュー以外誰もが同じ立場しか持ち得ないダダ甘コミュニケーションと違い、匿名性サービスにおける参加のしやすさというのは実力差をある程度残したままでのコミュニケーションとなり独特の地位を持つことができる。なので、匿名掲示版で「コンテンツ提供神」なる人物が存在しうる。
そう考えると「友達同士が面白い」という甘えが無い分、匿名利用できるサービスというのは難しく、かつそれが持つ面白さは本物なのではないだろうか。

ひょっとしたら「匿名性」と毛嫌いして実名本意を唱える人はコミュニケーション強者であり、仲間が多く居るからそれを元にした発言しかしていないのではないかとも見えてくる。
「無友力」と「実名主義(自己表現主義)」というのは対峙した存在なのかもしれない。
そう見ると、あくまで自己の存在とは別の実力だけで勝負したがる「無友力」の方が私は好きだ。

なんでこんな事を考え始めたのかというと「無友力」という言葉のすばらしさもさることながら、日本のWEBサービスに対する視点や評価があまりにもコミュニケーション至上主義すぎて何か大きなものを見落としているのではないかと思ったからだ。
サービスやコンテンツを語る際にすぐ「利用客数」や「販売数」を持ち出したがるあたりに釈然としないものを感じ始めていたという言い方もできる。
日本におけるWEBサービス成功の可否はほとんどコミュニケーションベースに乗れるかどうかで決まってしまう。利用者数第一で見るとよりその傾向が強まる。要するに、楽しくコミュニケーションできるサービスが成功しやすいということでそれはそれで結構なことなのだけれども、あまりにもコミュニケーション部分に注目しすぎてそれだけを追い求めるとサービスの本質を逃してしまうことになりはしないだろうか。
そりゃ、コミュニケーションは娯楽として最高であり楽しいですよ。でもそれは、ネットの向こうに人がいるからであって、楽しいのは人相手だからあたりまえなのである。
日本発のサービスやソフトウェアは成功しにくいとかよく言われるけれども、そりゃ本質部分なおざりでコミュニケーション部分ばかり見ていれば当然の事である。本当に提供したいサービスを考えていて、それをリトライしまくりで作り上げている海外には敵わないのかもしれない。
しかして何が成功するのかはやっぱりわかりにくいものなので難しいところではある。その理由は見えていて、制作の意図した所と違う使われ方でヒットするからなのだけれどもね。だから予測ができないし、弾を数撃つしかない。

いや、成功するかどうかというのもここではどうでもよいのだった。
本当に言いたいのは、ネットワークとテクノロジーの発展によって「知の集約」「知の集積」「知の活用」がなされるべきだということ。そのためのWEBサービスであり、コンテンツなんではないかなあと思う。
そういった「知」を扱うことを前提としないで「悦楽」というものだけ追い求めていて良いのかしらんと。悦楽的に知を扱うことのできるツールが目の前にあるのではないかとおもうのだけれども、なんか見えるような見えないような。

なので、サービスの本質を見抜く力が個々人の中に必要なのではないかと思うのですよ。
そのために「無友力」を有効活用した視点でサービスを、コンテンツを、コミュニケーションを見つめ直してみるというはどうであろうか。




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2 Responses to “無友力の高いWEBサービス”

  1. とおりすがりに Says:

    悦楽的に知を扱うことについて、
    自分が注目しているのはMAD+動画講座ですなぁ。
    音と映像でリズムよく解説されると、脳に直接書き込まれるようでクセになる。マトリックスで武術やら操縦法をインスコする感覚に少し近い。洗脳チックなのがタマにキズ。
    難しい本とかを良質なMADに訳してくれるサービスとかでて欲しいなぁとか思う。

    それはさておき、
    宮沢賢治が「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」というのを語っていたらしいけど、内容は一切残っていない。昔から知の集積やら活用やらに悩んでいる人はいるようですが、世間的にはそれは課題として認識されすらしていない様に思える。今後はこの辺が変わっていくと良いなと思います。

  2. rerofumi Says:

    情報というのは川の流れみたいなものかもしれません。
    その中に入り体にあたる水を知覚していると「オレ大量の情報を得ているZE」という気分になれるけれども実は素通りしているだけとか。
    そこから桶を使って重たい思いをしてくみ上げたものだけが自分のものになっているとか。

    「MAD+動画講座」というのはたぶん同じ水を何度も何度も浴びせかける行為で、そのうち意識せずに体内に入り込んでくるといった感じなのかと。
    面白ければそれはアリっぽいですね。

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