流通のスケールとミニマルの存在価値

小寺信良の現象試考:「一億総クリエイター」という勘違いに至る道のり
上記リンクはITmediaの記事。この記事から派生して色々な議論が繰り広げられているように見受けられる。
個人的には、書いてあることは順当なれど「なんか気持ち悪い」と感じた。その気持ち悪さはどこからくるのかとかどうもうまく説明できそうに無いので色々考えていたあたり。
おそらく私がひっかかっているのは「一億総CGM時代なんて幻想ですよ」ということの説明に使われている『いかにそれをビジネスとして回していけるか』のあたりなんだと思う。
コミュニティスペースが利益を追求しないと経営がたち行かなくなるというあたりは良いのだが、論点がずるりと「広場で楽しんでいる民間クリエイターも儲けないといけませんよ」と無理矢理シフトしているあたりがどうにも解せない。

UGCを商業システムにのせるにはクオリティが足りない、とか。流通にのせビジネスとして利益を追求するべきだ、とか。そういった危機感を持っているということが、既存のマス流通メディアの枠組みに浸かりきっていて、そこにしか価値を見いだせていないという事なんではないかと考える。

こういうときにたとえ話は悪手なのだけれども、うまい表現を思いつかなかったのでカレーにたとえてみる。
知り合いがカレーを手作りしてごちそうしてくれたとしよう。そしてそのカレーが美味しかったので感動したあなたはどういったアクションを取るべきなのだろうか。「ぜひ代金を払わせてくれ」と迫るのか、「全国に配給して利益を得るべきだと」提案するのか。
そもそもでその家庭用なべで煮たカレーは利益が欲しくて作られた物なのだろうか。

あなたのカレーは美味しいので町内会のバザーで大勢の人にふるまってやって欲しい。とちょっとだけスケールが広がる展開を見せた場合。バザーに集まる人数にもよるけれども、家庭用なべよりも大きななべを用意し十分な量を作る事になるだろう。それらの手間を考えると、この次点で申し出を辞退する人がいるかもしれない。
町内会のバザー規模であるとカレー代も馬鹿にならないので経費分を徴収するか、スポンサーが経費を負担してくれる事になるだろう。このとき「がっぽがっぽ儲けるぜ」という金額設定をするべきであろうか。

毎回バザーでカレーが好評なうえ、自分もカレー作りに意欲を燃やしているのであれば店舗を構えて町の小さなカレー屋さんを営む事になるかもしれない。ここで始めてカレー作りが利益追求の形を取り始めるが、バザーから店舗へ展開する距離はかなり離れている気もする。
町のカレー屋さんに食べに来る人数は百万人とか一億食といった規模にはならないだろう。そんなお店に「全国展開しないとビジネス規模が広がりません」と提案するのが次のスケールへの引導となる。

マスを対象にしビジネスとして成り立つカレーというのは、大人数によって工場で量産されるカレーということになる。全国に流通して均一的な味を格安で提供でき、なおかつ保存も利く、そんなレトルトカレーが最上位に位置することになる。もしくはチェーン店のカレー。
あなたはレトルトカレーと家庭のカレーを同一視してビジネス規模で優劣を判断していますか。
おそらく多くの人は「べつのもの」として、状況に応じた対応と評価をしていると思う。
誰が食べても同じ味と、私のために作ってくれた味は価値基準が異なるはずなのだ。

つまり、プロかアマかといった二極ではなく間に沢山のスケールクラスがあるはずなのですよ。
そしてそれらスケール毎に得られる報酬の形ってのがあって、精神的充足から貨幣まで色々なものから自分が最も欲しいものがあるところにとどまるものなのではないかと。
そしてそれらはどっちか片方しか生き残れないものではなくて、両方存在していくべきなもの。

ここまで書いてやっぱりもやもやしたままおわる。




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2 Responses to “流通のスケールとミニマルの存在価値”

  1. ヴぃっぺr Says:

    有限の資源である視聴者の時間が、彼らのビジネスから切り取られてるのに、それがなんのビジネスにも結びついていないところに懸念を抱き、批判をしてみた。
    この記事って結局そういう事でしょう。

    また、「製作面でのハードルが下がった事」と「ニコニコみたいなの」を分離できてない気がする。後者はビジネスの可能性が低いにしても、前者はまた別。「ニコニコの様なもの」では彼のいうクリエイターが生まれてこないと批判をするなら、そういうクリエイターを産むモデルを考えればいいのになー。なんか保守的で他人任せだよなー日本人。みたいな。

  2. eno7753 Says:

    「儲からなきゃいけない」が幻想だということは、すでに岡田斗司夫さんが『プチクリ』で指摘しています。

    作り手を育成する側から見ると、「クリエイター志望」から「クリエイター」にまで育つのはたった数パーセントで、9割以上は「食える」「儲かる」レベルに達しない。その9割に対して「君らは食えない、儲からないから表現なんかしても無駄だよ」と言うのはあまりに酷じゃないか、「食える」「儲かる」を目的にしなければ自由に自分を表現できるんだから、最初から「食える」「儲かる」を考えないで、みんなそれぞれ好きなことをやればいいじゃないか……という話です。

    で、CGMもそういうものだと思うわけです。9割以上のユーザーは、どんなに頑張っても「稼げるクリエイター」にはなれない。これは絶対的な事実であり、CGMやUGCについて議論するときの前提のはずです。「楽しい>儲かる」であって、間違ってもその逆じゃないよ、と。

    ただ、「クリエイターにまで育つのは数パーセント」
    ということは、総ユーザー数が増えれば「稼げるクリエイター」が数パーセントの確率で新しく現れる、という事実を表してもいます。だから、この議論とずれているかもしれませんが、「とにかく総ユーザー数を増やして、数十〜数百人に一人の割合で現れる『使える奴』を引っこ抜いて、金になる仕事をさせる」というビジネスモデルは成立し得るわけです。
    その一人を発見するためには、ニコニコなりpiaproなりpixivなりという場所=残りの9割のユーザーが「別に儲からないけど自由で楽しい」と遊びに来てくれる「場」を維持することが必要で、そのためのコストはちゃんと織り込み済みにしておかないといけません。

    だから「一億(総)クリエイター時代」は、「百億総ユーザー時代」を実現すれば自ずから訪れるのですが、問題は「地球上の人口が百億人いねーじゃんかよ」(笑)という話だな、と思いながら読みました。

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