Archive for the 'コラム' Category

魔法少女はいつから戦う存在になったのか

仲間とエロマンガやエロアニメについて語っていたときのネタより。故に出てくるタイトルがそういった方面に傾倒しているのはご容赦。

そもそもで私らには触手属性が無く、世の触手スキーのパワーに圧倒される事が多い。なんで奴らはあんなに触手が好きなんだ、というのが度々話題に上るのだが明確な結論は出ていない。そんだけ好きなのは原体験に因るところがあるのではないかと歴史をひもとくのだけれども、あんまり良くはわからない。
魔法少女が敗北を喫して触手に襲われる、というのが良くあるシチュエーションなのだけれどもこの魔法少女はいったいどこから出てきたのだ?というのが今回のお話だったりする。
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シンキング・ログ

なんとはなしに続いている Blog 更新だけれども、過去に書いたその記事を読み返すことがあるだろうか?私は意外とこの自分のBlogを楽しく読み返す事がある。
こう数年もの年月を経ていると、過去自分が唱えていた事象が正しかったかどうか、今はあの頃と比べてどうなっているのかといった答えあわせができるのだ。あのときはこう思っていたけれども、今はこうだよなーとか、今話題になっているけれども昔あれに目をつけていたよなとか。そういった「自分の考えの正しさ」を確認することができるあたりが楽しい。間違っていたら間違っていたで、どこにその差ができたのかを考えることができる。
ようするにこれは、そのとき世間をどのように見ていたのか、そのときどのように未来をみていたのかという「考え方の記録」なのだな。

当Blogになる前の遙か以前、Blogという単語もなかったころのWEB日記時代は本当に日記だったのだけれども、そんなものを書いても自分で読み返さないことにあるとき気がついた。自分でも読み返さないものを皆が見て楽しいモノだろうか、と考え次第にレビュー記事が中心となっていく。お買い物記事やレビュー記事であれば、情報を探している人にとっても益があるし書くネタも尽きないといったところである。
しかし、個人的に「レビュー記事というのは何も生み出さない」という結論に至った。
4年ほどふあふあファクトリーというアニメや漫画のレビュー記事を書き続けるサイトをやっていたし、1年ほど書影付きで読んだラノベを全部記録する「ラノベ読書感想文」などもやってみたが、やはり個人的に得るモノは少なかったというか意図して将来に残せる何かだと見いだせなかった。
コミュ指向の人であれば、このレビュー記事から近しい趣味の仲間を作ってコミュニケートしていくんだけれども、そういった目的がなく単に消費の記録として書いていたレビュー記事では読み返して得るものがあまりにも少なく感じたのである。
実際に読み返してみると「あー、あのころこれが発売されていたのか」と思うことはあるけれども、やっぱりそのレビュー記事そのものよりその周辺にあった事件と結びつけて「このころこんなことがあった」と考える事の方が多いみたいである。

そういったあたりから、後で読み返して面白い記録とは何かといった事に対してかなりシニカルに考えているようだ。

ある程度のところから、日記ではなくコラムになってきた。
その日あったことではなく、そのとき考えた事を書き綴っておくというスタイルである。あと、どんな記事でも 3年後読み返して恥ずかしくならない様に、という縛りを自分でこっそりとかけている。そんな風に書きつづった Blog はそのとき自分はどういった考えをしていたか、という記録になっている。
書いたばかりの最新記事に耳目が集まるよりも、5年以上も前の記事が掘り起こされて話題になる方が楽しいし、嬉しい。

結局 OpenLog は誰に見せるか、見せてどうするか、それが貯まるとどうなるかだと思う。
多くの LifeLog は見せることの楽しさ、Log自体のエンタティメント性に欠けていると考える。コミュニケーション指向Logはうまくやっているけれども、どうしても「俺を見ろ」「俺サイコーだろ?褒めてくれよ」的なコミュニティになりがちで、個人的に好きではない。
なので、そのときそのときの思考を記録していくという Blog 形式が自分にはあっているのかなと再確認した。



中学技術科授業の思い出

Make: Blog に「物作りがなぜ大切か」というコラムの翻訳記事が載っていた。
この中では理論だけで実践を伴わない子供達とそういった社会を作っている全ての人たちへ警鐘を鳴らしている。
「たくさん失敗を重ねるべきだ」「学校の技術科の授業では、失敗すれば評価が下がります。これでは物作りを楽しめるはずがありません。失敗が怖いからです。」といった言葉はいくらかの苦みを伴って胸に染みてくる。

私が中学生の時にも技術科の授業はあった。女子は家庭科で裁縫や染め物をやり男子は技術科で木工をして椅子を作ったりしていた。
そんな技術科の授業の中にプリント基板のラジオキットをはんだ付けで作成するというものがあった。この頃はまだはんだ付けもメジャーな加工技術で、ゆえに全員必須でやらせるのも普通のことであったのだろう。
しかし、小学校の頃からはんだ付けを覚えラジオキットの作成を数こなしてきた私にとってはこの授業内容はいささか退屈なものであった。キット作成で言えばMZ-40K(80じゃないよ)を組み立ててからずいぶんたっていたし、この頃の電子工作はTTLやCMOSのICが主流になってきていたから、いまさら6石(4石だったかも)のラジオキットなんて簡単に思えるものであったからだ。
なのでちょっといたずら心が芽生えた。自分自身に対しタイムトライアルでどれだけ短時間作成ができるかを課してみたのだ。結果1週間に1時間、5回だか6回だかで終わる授業内容を1回の時間で終わらせ一発で完動もさせることができた。
その様に自分の腕前をひけらかして一人で悦に至っていたらなにが起きたか、技術科教員に怒られたのである。
これを1時間で組み上げたと言っても信じてもらえず、「家で組み立てて来やがったな」という理由で怒られた。
もちろんそんな事はしていないし、得意分野で腕をふるって怒られるとは思っていなかったので当時は相当ショックを受けた。(まあ得意なことをやったら不利になるなんてのは良くあることではあるのだけれども)
余った時間は級友の制作フォローに回り、トラブルで動かないものを原因追及したりアドバイスしたりとその技術科教員が行えないような活動をしてまわることで一応「家で組み立てて来た」疑惑はとけたとは思う。
そんなエピソードの他にもいくつか苦い思い出はあるのだけれども、今回は割愛。

通常5~6回で終わる制作を1回で終わらせたということは、経験があったにせよ他の生徒の5倍の作業パフォーマンスをたたき出した事になる。腕の良い人が普通の人の5~10倍の効率で作業するなんてのはエンジニア、特にプログラマを生業としていれば普通に目にする光景なんじゃないかと思われる。まあ、その10倍速で作業できる人が超人というのわけではなく、その分野では適材といったニュアンスなのだけれども。
しかし、学校教育という集団組織はこの事実をなかなか生かしてはくれない。
1.0の能力を持つ平均的な人材への教育を目指すとして、0.5とか0.7とかを1.0へ引き上げるために組織というのものは良く機能するのだが、逆に5.0も1.0に丸め込んでしまいかねない。

工業技術ですらそうなのだから、情報工学という名のコンピューター操作演習になれば普段から道具として使っている人とそうでない人の間には100倍以上の効率&速度差がついても不思議ではない。
そのとき100.0の位置にいる人間を正しく評価して扱うことができているのか、そもそも定義される1.0が正しい水準なのか、色々と疑問は尽きない。

ついでなので小学校の頃の話も。
そこそこの町の小学校はいくつかの学校が隣接しているので、このエリアまでの児童はこの小学校に行きますという住居による学校わけがあった。「校区」というやつである。そして、その校区の外、他の学校のエリアは「校区外」と呼ばれ学校や教師の管理責任範囲の関係から校区外へ父兄の同伴なしに遊びに行ってはならないという規則が存在していた。
私が小学生の頃、市の科学博物館が建設される。ちと遠いけれども自転車で行ける距離だったため、必死になって通って展示物に目を輝かせていた。子供向けに半年間何回でも出入り自由な「定期券」というのもあったのだが、お小遣いから捻出してその定期券を手にし、これからばんばん通うぜー!と盛り上がったりした。
だが、学校側と教師にしこたま怒られて以後通うことができなくなった。科学博物館が校区外にあったからである。なにがあっても、どのような目的であっても校区外に行ってはならぬと言われた。
今度は図書館に通い始めた。電気、電子工学に興味を持ち始めたもののそういった本は高いし学校の図書館には当然ないどころか、知識欲を満たせるような高度なモノがなかったからである。なので市の図書館へ赴いて、そういった本を貪るように読みあさっていたのである。
だが、その図書館も校区外だったため行ってはならぬと再びこってりと怒られた。
子供の頃のもっとも学習欲旺盛だった時期にそれを阻害され、組織的都合で理不尽に怒られるというおまけもついてきたこれらのエピソードは今でもちょっぴり根にもっている。



庶民的な味

子供の頃に食べていたものが大きくなっても影響しているよね、というお話。

ときたま、マルシンフーズのハンバーグが食べたくなるときがある。
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なんでも昭和三十五年からということだから、かれこれ48年も売られている超定番商品である。
ハンバーグといっても高いモノではないので、食べたくなったら3〜5個の束で買ってきて数日はハンバーグ三昧にひたれる。今日買いに行ったら 1個 88円であった。
ケチャップで良し、パンに挟んで良し、焼き肉のたれでどんぶりご飯にのせても良しである。
マルシンハンバーグの凄いところは「久々に食いてー」と買ってきてみると、記憶通りの味で「これだよこれー」と幸せな気分に浸れるところではないかと思う。表面にラードがまぶしてあって、フライパンを温めるだけで油をひかずに焼くことができるあたりとか。ヘルシー嗜好の今時にラードかと思わなくもないけれども、これがまたうまさの一端でもあるんだよな。
最も、時代の流れで合成添加物の使用量が減っており、大豆由来の分解物や化学調味料ぐらいになっているから味も変わっているはずなんだけれどもあまりそれを感じさせてない気がする。

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一方、いつの間にか美味しくなっているものもあったりする。その一つ、魚肉ソーセージ。
久々に食べたら妙に旨くなってて、しばらく冷蔵庫に常備していたほど。昔は、添加物たっぷりで食べていると歯がぎしぎしするというまずくて謎な食品だったのにな。それでも、冷蔵庫から出してすぐ食べられるので子供の頃はおやつ代わりにもぎゅもぎゅ食べていた、そんな思い出。
最近の魚肉ソーセージはみんな旨いのかー、と思って適当に買っていたら実はそんなこともなかった。安売りの良くわかんないところの奴は、あまりにもまずくて辛かった。丸大食品ももう少しがんばりましょう。
うめー、と思ったのはやはりニッスイとかその辺の魚肉ソーセージのフラグリーダーなあたり。なんと、ニッスイはケーシングに金属で止めず全部プラスチックで封をしているという新技術を導入。前歯でビリッ、ビーーーッと剥く派の人もこれで歯欠けを恐れる必要が無いというすばらしさ。

こういった100円で買える食品の中にも進歩を感じると色々と嬉しくなってくるあたり。

安い食品であるからと軽んじて見る事は無いと思う。
子供の頃に、インスタントラーメン(袋麺)のスープを高級にしたら旨くなるのかと疑問に思ったことがあり、試したことがある。それなりに美味しい中華スープを調達し、そこに茹でたインスタントラーメンの麺を入れて食べてみたのだ。すごく不味かった。
この不味い麺は、安っぽい粉のスープで食べるのだから美味しいのだと言うことを理解した。
同じように、美味しいというか庶民的なカレーうどんというのも結構難しい。カレーが良くてもうどんが良くてもそんなに美味しくならない。安い茹で玉うどんにボンカレーをかけるのが一番合っていたりもする。
全てのモノが高級であれば良いというわけではないのだ。そこそこのクラスにはそこそこなりの価値がちゃんと存在している。
そこそこの幸せは見落としがちだけれども、案外大きいのかもしれない。



オープンエモーションという考え方

オープンソース系の実力者は、その Blog も面白いなあと思う事が多い。
以前から漠然と思っていたものの説得に足る材料が揃えられていないため口外してこなかったことなのだが。
結局、今の時点でも統計をとっているわけではないので単に私がそう感じているといった程度に受け止めて貰いたい。

オープンソースというと「無料」というイメージがつきまとうが、本来はそういった金銭的なお話ではない。文化をみんなで育てるという割と当たり前な事をしようとしているだけである。
文化を発展させるためには、誰でも参加できるようにした方が良いよねということを若干強調しているに過ぎない。ただ、その強調部分が「金銭的なお話」の人の何かを逆撫でしてしまうことが多く、あらぬ方向で火の手を上げてしまうのだが。

オープンソースと直接的には関係ない記事だけれども dankogai氏の「気前がいい」関連やその周辺の反応は興味深く読ませてもらったし、その後しばらくたっても頭の中に残っている。

404 Blog Not Found: 気前という技術
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50864723.html
404 Blog Not Found: 頭がいいより気前がいい
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50773505.html
www.textfile.org: 頭がいいより気前がいい(反応記事)
http://d.hatena.ne.jp/textfile/20070226/kimae

オープンソースという言葉を使ってしまうとどうしてもコンピュータープログラムがイメージされてしまうため話しの発展性が無くなるが、要するに「技術」や「知識」や「嬉しさ」をできるだけ公開・共有してお互いの意見をぶつけあいより良くしていこうということだと思う。
別にそこにおいて「金銭的に儲かる」話しをしても実は良いのだけれども、文化的発展を阻害するのだけは御法度である。そして、過度の私欲追求(お金だけじゃなく、名誉や権力も)は文化的発展の阻害要因となることが多いので、非難対象とされやすいというだけの話しだと思う。

あんまり外れた所に力をいれてもしょうがないので Blog の話に戻るけれども、オープンソース系をその様に理解し活躍されている人ってのは Blog に対する姿勢もオープンソースと同様なのではないかと類推するわけだ。
つまり、技術を伝搬し知識をぶつけて切磋琢磨していくための文章だからではないかと。
Blog なので思想的なものだけではなく、感情的なものも良く記述されている。でもそれにおいても、単なる日常を記した個人日記やメモというわけではなく誰かに伝えるためのもの、ひいては文化的発展に関与するためのものであるとみている。そして、そういった感情論の上に技術や知識が乗っかって味わい深い記事となっていくのだ。

そういった、オープンソース的だけれどもプログラムに因らない Blog エントリーはどう表現すべきなのかと考えていたのだけれども、言うなれば「オープンエモーション」といったところだろうか。
ソースコードと同じくなんでもかんでもオープンにすれば良いという物ではなく、文化的発展を狙ってここぞというところをオープンにしシェアしていく、そんな感じ。

以上の様な視点で Blog をみていくと、意外と重要なのが間違った見識でもって書かれた記事であることにも気がつく。もちろん間違っているのでその記事自体は害なのだが、それを諫める識者の反応がとてつもなく役に立つ。様々な正解が寄せられて比較できるのもそうだが、答え合わせをして何が間違っていたのかを考察することが勉強になるのだ。
タコも財産なり。



つぶやき 10/27/1999

コラムで思い出したが、ZDnet で読める PC magazine online のコラムはお気に入りで
欠かさずチェックしている。
Dvorak氏、Willmott氏、Miller氏の語り口はどれも鋭くかつユーモアに富んでいるので
読んでいて楽しい。訳者の技量もなかなかである。若干辛口な向きはあるが個人的に納得
できる内容が多いので気にはなっていない。

そういえば世間がiBookで盛り上がっているとき Dvorak氏はコラム中で「あのかわいい
マシンはなんだ、男が使うマシンはもっとがっしりとしてカッコよくなくてはいかん」と
言った向きの事を書いたら、他サイトでもやり玉にあげられ騒然となった。あの様は
なかなかに面白い物があったと記憶している。
多少極端ではあるが Dvorak氏の「カッコ良くなくてはイカン」といった向きは十分に
納得がいく。なんのかんので最先端技術ってのは「カッコいい」がキーワードに発展して
行くものである。




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