モノを作るということを知ること

textfile.org 経由で「コンピュータ学習におけるT型フォード」という話題。
もちろん引用元であるアラン・ケイのインタビュー記事は既読済み。
まあ、その文章を読んで感銘を受けたとか、激しく賛同したということもなく。というのも、私自身のお題目も「造り方をできるだけ開示する」というところにあり、拙いながらも実践しているつもりだからですな(おこがましくも)。必ずソースコードを付けてみたり、作成手順を残してみたり。
コメを噛めにしても、完全ブラックボックスとなっているハードウェアを少しでも取っつきやすくしようというところがあるわけだし。

やっぱり私も家にあるものを片っ端から分解してまわる子供だったのですよ。それでしかられた記憶が数知れず。
だから、科学や技術に触れることが難しい昨今を密かに憂いていたわけで。

とはいえ、私は「丁寧に教える」事が苦手なので、ある程度の知識があるところからスタートしていたり、細かいところは自分で調べろとなっていたりするあたりが問題ではある。せめて、楽しそうにモノを作っている姿だけでも見せることができないものかと思っている次第。
それよりも、私なんぞよりもっとわかりやすく色んな凄いモノを作ったり説明したりしている人がわんさといるわけで。WEB上をちょっと調べるだけでもそういった人に出会える良い時代になった。
だから今必要なのは「自分で探そうとする」態度を身につけていく事なんだろうと思う。

私がアラン・ケイのインタビューを読んだ中でもの凄く印象に残ったのは、「口述に基づく旧来の文化と、記述方法を備えた文化」のくだり。
文化的に成長するには「自分の力で文章を書く」ことが重要で、「音声通話」や「既存文章の引用(コピペ)」では退行するだけだとかいうお話。「実際に話さないと分からないから」という言葉にわだかまりを持っていたのだけれども、それを明示されたので。
関連で文書を作ることができない症候群も、最近では非常に考えさせられたトピック。
日本の教育制度のおかげでほとんどの人が文を読み、書くことができている。しかし、文章を書くというのは実はピアノを弾くような物で、叩いて音を出すことは誰にでもできるが綺麗な旋律を奏でるためには能力が必要なのだと考える様になった。

どんなに駄文、駄工作、駄プログラムであっても数をこなせばそこそこ見れるものが作れるようになっていくはず。もし天才でない場合、地道に数をこなしていくしか無いんだろうな。
と、今日も駄文をしたためる。
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