理系は他人の言を話半分で聞いているのか?

文系的な思考と理系的な思考という文を、以前読んだことがある。
文章などで不明な部分があった時に、その不明部分が判明してから次へ進むのが文系的思考であり、不明点はひとまず置いておいて先に進み全体を把握してから不明点の解釈をするのが理系的思考なのだという。
ずいぶんと乱暴な定義ではあるが、自分は明らかに後者の思考手順を踏む人間なので、これはこれで妙に印象深かった覚えがある。
一見関係なさそうなそんな話を、ARTIFACTさんところで「小説を読むとき内容を脳内にビジュアル化するか否か」の記事を読んだ時に思い出した。
というのも加野瀬さんが最後に「ビジュアル化すると読むスピードが遅くなる」という一言を加えていたからである。
ビジュアル化すると読む速度が遅くなるということは、ひとまず全体を通して、情景は後から組み立てようという事なのだろう。ちなみに速読法はそういった読み方をするそうで。
ビジュアル化するしない、や脳内音読するしない、といった実際のアクション的な側面ではなくて、その文章をどのように読んでいるかという事にもかかってきそうな気もする。取り敢えず全容が知りたいといった場合には、理系的な通し読みで後からストーリーを整理する方法が良いだろうし、文体の妙や表現の機微を楽しみたいといった場合には文系的な逐次解釈でなければならないと思う。
私も普段はできるだけドバーと高速で読んでおしまいな人だけれども、本当に1文1文噛みしめたい時には読む速度は極端に遅くなる。そういったコンテンツに対するスタンス込みでないと語れないお話なのではないだろうか。

最近アニメを「ながら」で見ることができなくなった。
アニメを見る際に「そのアニメのストーリーが知りたい」程度ではなく、「そのアニメがどのように作られているのか構成が知りたい」的な視点で見ることが多くなったからである。カッコ良く言うとクリエイターに敬意を表しながら試聴したいといったところか。
ま、惰性で見ているどうでもいい番組(グランセイザーとか)は「ながら」で流しているけれども。
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